『圧倒的な勝利をもたらす祈り』

聖書箇所:U歴代誌 20章1〜13節                             メッセンジャー:イザヤ木原真牧師

モアブ人とアモン人の合流したおびただしい大軍が攻めてきます。これは、子どもでも絶体絶命とわかるほどの大軍でした。

その時、ユダの王であったヨシャパテは、恐れたと聖書に書いてあります。私たちの人生においても、恐れてしまうことがあります。

それは、普通のことです。問題は、恐れた時に逃げてしまったり、止めてしまったり、引いてしまったり、お酒に逃げたりしてしまう

ことです。ヨシャパテは、どうしたかというと、神に叫んだと書いてあります。その恐れを通して、神に向かって叫んだのです。

健全な恐れは、人を神に導くと言った方がいました。恐れ自体は、良くも悪くもありません。しかし、恐れのゆえに、あきらめたり、

投げ出したり、逃げてしまう結果、神様の祝福を失ってしまうのです。恐れがあったとしても、その恐れを持って神様の前に出る時、

神様に叫ぶ時に、神様の手を、愛を、真実を人生の中に必ず見ることが出来るのです。本当に神様に叫ぶ時に見るのです。

祈りは、きやすめではありません、自己満足でもありません。祈りとは、目には見えなくても今も、生きて働いておられる神様への

私たちの心の叫びです。神様は、人間でも、愛している人の叫びになんとかして答えたいと思うように、手を伸ばし具体的に、

生きて働かれます。もし、まだ体験されていない方がいらっしゃなるなら、あなたの心からの願いを叫んで下さい。神様はその叫び

を聞かれます。

 

では、ヨシャパテは、どう祈ったのでしょうか、5節にあります。敵が攻めてき、戦いが目の前にある中で、現状がどうかではなく、

どんな困難が目の前にあるかではなく、神様ご自身をほめたたえ、神様がどういう方なのかを言ったのです。7節には、今まで、

神様がなして下さった神の恵みを思い返し祈っています。困難だけに目をとめてしまうと、私たちは多くの場合、不信仰になって

しまいます。しかし、神様がなして下さった恵みを思い返すとき、信仰がよみがえってくるのです。8節では、、神様が約束して下さっ

たことを祈っています。ヨシャパテは、与えられている約束を握って祈ったのです。みなさんにも、すでに与えられている約束がある

と思います。その神の約束の言葉を盾に祈るです。もし、言葉を受けていないとい方がいらっしゃるなら、神様に、求めて下さい。

神様は、喜んで与えて下さいます。また、約束を思い返して下さい。神様の前に出る時、再び約束を思い起こさせて下さいます。

神様は、忘れておられないからです。神様は、約束を破ることは出来ません。神様は、真実で裏切られないのです。

その祈りをヨシャパテは、したのです。そして最後に、現状を神様に向かって祈ったのです。ここで初めて、非常に困難な状況を、

神様に叫び、あなたに目を向けるだけ、すがるしかないと、まさしく叫んだのです。

 

このあと、有名な大逆転の勝利、全滅させられることが目に見えていたのに、やりを一本も使わずに勝利をみたのです。

聖書を見る時に、神様に叫び、神様が働かれる時の勝利は、かろうじてとか、やっとの勝利ではありません。圧倒的な勝利、

想像することも出来ないような勝利なのです。

しかし、日本の教会は、その勝利をみていません。私たちは、これから神様に向かって叫び、神様をほめたたえ、どういう方なのか

を言い、恵み思い返し、否定的にではなく、現状を信仰を立って叫ぶ時に、希望をもって、すがりつくときに、神様は、私たちの人生

に、この国に、圧倒的な御業を必ずなされるのです。11月から新しい歩みが始まります。殉教者の血の報いが、世界中で、韓国で

日本のために祈られてい祈りが具体的に聞かれようとしています。確かに、私たちも恐れをお持ちます。それぞれ、置かれている

職場や学校で。しかし、その恐れを持って神様に叫び祈りましょう。一人で祈れないなら、教会に共に集まり叫び、不信仰ではなく

御言葉にたって、希望に立って叫ぶ時、神様の奇跡を人生の中に、お互いの家庭の中でみていくのです。そして、その神様の御業

は、人々をとらえるのです。そして、神様は、みなさんの人生にそのような奇跡を見てもらいたいのです。

恐れは、私たちを神様のもとへ導く、神の愛です。ともに、この恐れを持って、神様に叫びましょう。その恐れは、困難は、

神様が働かれ、ヨシャパテが見たような圧倒的な勝利となり、希望となるのです。

 

                                                              (文責 モーセ出西 光) 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2008年10月26日 主日第二礼拝メッセージより