『神様を信じる』

                    マルコの福音書112224節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

・信じる

「自分を信じろ。」と人は言います。特に日本人の考え方として、このような考え方は多いように思われます。しかし、聖書は何と言っているのでしょう。クリスチャンであれば当然のように思われるかもしれませんが、聖書は、「神を信じなさい。」(22)と言っています。「自分を信じろ。」とは、書いてはいないのです。

人は、自分の力で何かを勝ち取る事が確かに出来るでしょう。あるいは、他の誰かを信用する事で助けられることもあるでしょう。でも、人にはどうしても出来ない事があります。例えば、子どもに何かしてあげたいと思っていても、出来ない時があります。私たちが人である以上、私たちには限界があるからです。

しかし、そこであきらめる必要はありません。神様を信じるのです。神様は私たちとは違い限界がありません。しかも、神様は私たちの人生にとって最善を成してくださるのです。

クリスチャンであっても、いつのまにか、自分の力や可能性で生きようとしてしまいます。しかし、私たちが信じるのは自分ではありません。神様を信じるのです。神様を中心において歩みましょう。それは最善の道です。

 

・告白する

「だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って」(23)と書かれています。本来、山は動きません。ましてや、人の力では決して動かす事が出来ないものです。しかし、私たちが行く道には、その山がしばしば現れます。どうしようも出来ない問題や困難という山です。その山に向かって「動いて、海にはいれ。」と言えば、動くと言われているのです。言葉とは、心にあることが出てきます。つまり私たちの口が、何を告白するかは重要な事なのです。何か問題があった時、「もうムリだ。」「もうダメだ。」と口にしてはいないでしょうか。聖書は「神様はすべて益にする」と言っています。ですから、「神様がいるからだいじょうぶ。」「神様がすべて益としてくださる。」と、私たちは信仰に立って、告白しなければなりません。告白は信仰の表れだからです。また、その告白の中心は、自分の思いではなく、神様が語られる言葉です。神様の言葉に力があるのです。

23節に「疑わず」と書かれています。もちろん、まったく疑わずにいる事は、素晴らしいことですが、それは特別な恵です。私たちは疑ってしまいます。しかし、その疑いに立ち続けていてはいけないのです。私たちの心に疑いが来た時に、信仰を用いて神様を信じ、告白するのです。確かに神様の言葉を語ることには、戦いがあります。ある時には、恐れをおぼえる時さえあるのでしょう。しかしその時、信仰を用いて告白していきましょう。

 

・受けたと信じる

 本当に神様に祈ったのにも関わらず、祈りが聞かれていないかのようにしている人がいます。本当に神様に祈って求めたことに対しては、すでに祈りを聞いて与えてくださったと信じるのです。そうすれば、その通りになるのです。神様は信仰を通して働かれるからです。

 

神様は私たちを祝福してくださいます。神様が私たちに与える言葉は、希望であり、いやしであり、祝福です。なぜなら神は愛だからです。その神様が与えてくださる言葉を告白しましょう。自分自身に対して、また人々に対して、神様を信じ、告白するのです。その時、私たちが告白した言葉の成就を、神様は豊かに与えてくださいます。

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2009614日 主日第2礼拝より