MIME-Version: 1.0 Content-Type: multipart/related; boundary="----=_NextPart_01CAB278.0326E220" このドキュメントは単一ファイル Web ページ (Web アーカイブ ファイル) です。お使いのブラウザ、またはエディタは Web アーカイブ ファイルをサポートしていません。Microsoft Internet Explorer など、Web アーカイブをサポートするブラウザをダウンロードしてください。 ------=_NextPart_01CAB278.0326E220 Content-Location: file:///C:/A518CE54/100214.htm Content-Transfer-Encoding: quoted-printable Content-Type: text/html; charset="us-ascii" メッセンジャーイ = 470;ヤ木原真牧師

『喜びに満たさӚ= 8;る十字架の歩み』 &= #12288;         = 288; 聖書箇所 : マ= ;ルコの福音書834節 &#= 12288;      = 288;    メッセンジャー:&#= 26408;原純子牧師

「だれでも|= 31;たしについて来たい= と思うなら、自分を= 5448;て、自分の十字架ӛ= 4;負い、そしてわたし&= #12395;ついて来なさい」A= 288;マルコの福音書834節)。このô= 81;言葉は弟子たちだけ= でなく、群衆にも語= 2425;れています。今日ӗ= 9;、3つのポイントからࠤ= 9;に学んでいきたいと&= #24605;います。

 

いら= ;ないものを捨てる

イエス様がÕ= 13;字架の上で私たちの= 罪をあがない、悲し= 2415;も苦しみも引き受Ӕ= 9;てくださいました。&= #12384;から、私たちは痛 = 415;、憂い、思い煩い、= ;悲しみ、赦せない心&#= 12289;ねたみなどをいつ|= 14;でも握る必要はあり= ません。イエス様に= 0449;頼し、ゆだねる時ӌ= 9;自由になります。癒&= #12375;を受け、罪からの#= 299;放を受けます。

また、神様{= 99;、偶像を造り偶像を= 拝むことを忌み嫌わ= 2428;ます。生ける真のణ= 0;だけを礼拝すること&= #12364;神様の御心です。= 169;は献身する前に、偶= ;像と疑わしきものを&#= 20840;て捨てました(そ{= 98;当時、実家に住んで= いて父母のものは勝= 5163;に捨てることはでӔ= 5;ませんので、自分の&= #25152;有するものを捨て = 414;した。)偶像を捨て= ;た時、神様のご臨在&#= 12364;私の部屋に溢れて{= 56;きました。そこで、= 聖書を読み神様と深= 2367;交わることができә= 4;した。私の人生の神&= #27096;からの召しや大切 = 394;語りかけを受けまし= ;た。捨てることは祝&#= 31119;であると身をもっ{= 90;体験しました。

自我= ;を捨てる

ピリピ人へ{= 98;手紙26節、7節に「キリストはణ= 0;の御姿である方なの&= #12395;、神のあり方を捨 = 390;られないとは考えず= ;、ご自分を無にして&#= 20181;える者の姿をとりz= 89;人間と同じようにな= られました。」とあ= 2426;ます。神であるイӝ= 6;ス様は栄光、誉れ、&= #20840;てを持っておられ = 427;お方です。しかし、= ;神のあり方を捨てる&#= 12371;とができないとはŇ= 71;えられないで、私た= ち一人ひとりのため= 2395;十字架にかかり全ӗ= 0;を捨ててくださいま&= #12375;た。

人間は弱い{= 98;で自我を捨てること= はなかなかできませ= 2435;。ですが、イエスક= 6;の十字架の勝利があ&= #12427;ので、私たちのう = 385;にある自我(こだわ= ;り、やり方、義、当&#= 28982;の権利、プライド{= 94;ど)を捨てることが= できます。これらを= 5448;てることは祝福の຾= 9;です。自我を捨てて&= #31070;様に従っていく時 = 289;神様の通り良き管と= ;なって神様の御心を&#= 27969;していく器となり|= 14;す。そして、神様の= 御業、奇跡を頻繁に= 0307;験するようになりә= 4;す。

大切= ;なものをささげる

神様に従っ{= 90;いく上で、大切なも= のをささげなければ= 2356;けない時がありまӕ= 7;。アブラハムが最愛&= #12398;息子イサクを捧げ = 383;ようにある時は大切= ;な家族を、26聖人が自分の命をӕ= 3;さげたようにある時&= #12399;命さえも。本当に = 289;本当に、大切なもの= ;をささげることは人&#= 38291;の力ではできない{= 92;思います。しかし、= イエス様の十字架が= 2354;るので、ただ神様ӗ= 8;一方的な恵みによっ&= #12390;どんなに大切なも = 398;でもささげることが= ;できるのです。

大切なもの|= 34;ささげ神様に従って= 行く歩みは本格的な= 1313;字架を負う歩みでӕ= 7;。しかし、この歩み&= #12399;、イエス様ご自身 = 364;共におられることを= ;深く感じます。なぜ&#= 12394;ら、イエス様が私{= 83;ちの前を歩んでくだ= さり、十字架を共に= 5285;ってくださるからӗ= 1;す。一人では、絶対&= #12395;担うことができな = 356;十字架もイエス様が= ;力を与えてくださり&#= 20840;うできるのです。

 

自分を捨てŌ= 58;分の十字架を負う歩= みは決して苦しいも= 2398;、辛いものではあӚ= 6;ません。イエス様の&= #21313;字架のあがないへ = 398;感謝が溢れ、十字架= ;の愛を深く体験して&#= 12422;きます。そして、|= 52;エス様が共におられ= る喜びで満たされて= 2422;く素晴らしい歩みӗ= 1;す。この喜びを26聖人は持っていたӗ= 8;で喜んで殉教してゆ&= #12365;ました。一方、使= 466;パウロも26聖人と同じ喜びを০= 5;っていて十字架の歩&= #12415;を全うしました。 = 497;ウロは、ピリピ人の= ;手紙38節で「私のÈ= 27;であるキリスト・イ= エスを知っているこ= 2392;のすばらしさのゆӔ= 0;に、いっさいのこと&= #12434;損と思っています = 290;私はキリストのため= ;にすべてのものを捨&#= 12390;て、それらをちり{= 54;くた(糞土のこと)= と思っています。」= 2392;いいきりました。ӕ= 1;の真の喜びを奪うも&= #12398;は何もありません = 290;

(文= ;責 久保田望)=

= 0027;の十字架クリスチӣ= 5;ンセンター 神のし&= #12418;べ長崎教会

2010214日 &#= 20027;日第二礼拝メッセ}= 40;ジより

------=_NextPart_01CAB278.0326E220 Content-Location: file:///C:/A518CE54/100214.files/image001.gif Content-Transfer-Encoding: base64 Content-Type: image/gif R0lGODlh0gUCAHcAMSH+GlNvZnR3YXJlOiBNaWNyb3NvZnQgT2ZmaWNlACH5BAEAAAAALAEAAADQ BQEAgAAAAAAAAAImjI+py+0Po5y02ouz3rz7D4biSJbmiabqyrbuC8fyTNf2jef6UQAAOw== ------=_NextPart_01CAB278.0326E220 Content-Location: file:///C:/A518CE54/100214.files/filelist.xml Content-Transfer-Encoding: quoted-printable Content-Type: text/xml; charset="utf-8" ------=_NextPart_01CAB278.0326E220--