MIME-Version: 1.0 Content-Type: multipart/related; boundary="----=_NextPart_01CAB278.0326E220" このドキュメントは単一ファイル Web ページ (Web アーカイブ ファイル) です。お使いのブラウザ、またはエディタは Web アーカイブ ファイルをサポートしていません。Microsoft Internet Explorer など、Web アーカイブをサポートするブラウザをダウンロードしてください。 ------=_NextPart_01CAB278.0326E220 Content-Location: file:///C:/A518CE54/100214.htm Content-Transfer-Encoding: quoted-printable Content-Type: text/html; charset="us-ascii"
『喜びに満たさӚ=
8;る十字架の歩み』 &=
#12288; =
288; 聖書箇所 : マ=
;ルコの福音書8章34節 =
12288; =
288; メッセンジャー:=
26408;原純子牧師
「だれでも|=
31;たしについて来たい=
と思うなら、自分を=
5448;て、自分の十字架ӛ=
4;負い、そしてわたし&=
#12395;ついて来なさい」A=
288;マルコの福音書8章34節)。このô=
81;言葉は弟子たちだけ=
でなく、群衆にも語=
2425;れています。今日ӗ=
9;、3つのポイントからࠤ=
9;に学んでいきたいと&=
#24605;います。
①いら=
;ないものを捨てる
イエス様がÕ=
13;字架の上で私たちの=
罪をあがない、悲し=
2415;も苦しみも引き受Ӕ=
9;てくださいました。&=
#12384;から、私たちは痛=
415;、憂い、思い煩い、=
;悲しみ、赦せない心=
12289;ねたみなどをいつ|=
14;でも握る必要はあり=
ません。イエス様に=
0449;頼し、ゆだねる時ӌ=
9;自由になります。癒&=
#12375;を受け、罪からの#=
299;放を受けます。
また、神様{=
99;、偶像を造り偶像を=
拝むことを忌み嫌わ=
2428;ます。生ける真のణ=
0;だけを礼拝すること&=
#12364;神様の御心です。=
169;は献身する前に、偶=
;像と疑わしきものを=
20840;て捨てました(そ{=
98;当時、実家に住んで=
いて父母のものは勝=
5163;に捨てることはでӔ=
5;ませんので、自分の&=
#25152;有するものを捨て=
414;した。)偶像を捨て=
;た時、神様のご臨在=
12364;私の部屋に溢れて{=
56;きました。そこで、=
聖書を読み神様と深=
2367;交わることができә=
4;した。私の人生の神&=
#27096;からの召しや大切=
394;語りかけを受けまし=
;た。捨てることは祝=
31119;であると身をもっ{=
90;体験しました。
②自我=
;を捨てる
ピリピ人へ{=
98;手紙2章6節、7節に「キリストはణ=
0;の御姿である方なの&=
#12395;、神のあり方を捨=
390;られないとは考えず=
;、ご自分を無にして=
20181;える者の姿をとりz=
89;人間と同じようにな=
られました。」とあ=
2426;ます。神であるイӝ=
6;ス様は栄光、誉れ、&=
#20840;てを持っておられ=
427;お方です。しかし、=
;神のあり方を捨てる=
12371;とができないとはŇ=
71;えられないで、私た=
ち一人ひとりのため=
2395;十字架にかかり全ӗ=
0;を捨ててくださいま&=
#12375;た。
人間は弱い{=
98;で自我を捨てること=
はなかなかできませ=
2435;。ですが、イエスક=
6;の十字架の勝利があ&=
#12427;ので、私たちのう=
385;にある自我(こだわ=
;り、やり方、義、当=
28982;の権利、プライド{=
94;ど)を捨てることが=
できます。これらを=
5448;てることは祝福の=
9;です。自我を捨てて&=
#31070;様に従っていく時=
289;神様の通り良き管と=
;なって神様の御心を=
27969;していく器となり|=
14;す。そして、神様の=
御業、奇跡を頻繁に=
0307;験するようになりә=
4;す。
③大切=
;なものをささげる
神様に従っ{=
90;いく上で、大切なも=
のをささげなければ=
2356;けない時がありまӕ=
7;。アブラハムが最愛&=
#12398;息子イサクを捧げ=
383;ようにある時は大切=
;な家族を、26聖人が自分の命をӕ=
3;さげたようにある時&=
#12399;命さえも。本当に=
289;本当に、大切なもの=
;をささげることは人=
38291;の力ではできない{=
92;思います。しかし、=
イエス様の十字架が=
2354;るので、ただ神様ӗ=
8;一方的な恵みによっ&=
#12390;どんなに大切なも=
398;でもささげることが=
;できるのです。
大切なもの|=
34;ささげ神様に従って=
行く歩みは本格的な=
1313;字架を負う歩みでӕ=
7;。しかし、この歩み&=
#12399;、イエス様ご自身=
364;共におられることを=
;深く感じます。なぜ=
12394;ら、イエス様が私{=
83;ちの前を歩んでくだ=
さり、十字架を共に=
5285;ってくださるからӗ=
1;す。一人では、絶対&=
#12395;担うことができな=
356;十字架もイエス様が=
;力を与えてくださり=
20840;うできるのです。
自分を捨てŌ=
58;分の十字架を負う歩=
みは決して苦しいも=
2398;、辛いものではあӚ=
6;ません。イエス様の&=
#21313;字架のあがないへ=
398;感謝が溢れ、十字架=
;の愛を深く体験して=
12422;きます。そして、|=
52;エス様が共におられ=
る喜びで満たされて=
2422;く素晴らしい歩みӗ=
1;す。この喜びを26聖人は持っていたӗ=
8;で喜んで殉教してゆ&=
#12365;ました。一方、使=
466;パウロも26聖人と同じ喜びを০=
5;っていて十字架の歩&=
#12415;を全うしました。=
497;ウロは、ピリピ人の=
;手紙3章8節で「私のÈ=
27;であるキリスト・イ=
エスを知っているこ=
2392;のすばらしさのゆӔ=
0;に、いっさいのこと&=
#12434;損と思っています=
290;私はキリストのため=
;にすべてのものを捨=
12390;て、それらをちり{=
54;くた(糞土のこと)=
と思っています。」=
2392;いいきりました。ӕ=
1;の真の喜びを奪うも&=
#12398;は何もありません=
290;
(文=
;責 久保田望)
=
0027;の十字架クリスチӣ=
5;ンセンター 神のし&=
#12418;べ長崎教会
2010年2月14日 =
20027;日第二礼拝メッセ}=
40;ジより