『主に向かって祈る〜絶体絶命から、圧倒的な勝利へ〜

                聖書箇所 第2歴代誌20113節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 ユダの王、ヨシャパテのもとに、モアブ人とアモン人の大軍が攻めてきました。その力は強大で、明日にも、ユダは全滅し、皆殺しにされてしまうことが、明らかであり、どんなに頑張っても、勝ち目のない戦いでした。

 しかしその中で、ヨシャパテ王は、神様に向かって、自分の権威の及ぶ、全国民と共に断食を持って、祈りました。彼らの祈りと叫びの後、神様は預言を通して、「わたしがあなたと共に戦う、これは神の戦いであるから。」という言葉を与えられ、さらに指示を与え、勝利の約束を与えられます。ヨシャパテはその言葉と約束を信じて、神様に感謝し、礼拝をささげ、指示の通りに、賛美隊を戦いの最前線へ送りました。するとその時、神様の御業が現されました。突然、伏兵が現れ、敵軍は同士討ちをして、ついには、全滅してしまったのです。その結果、ヨシャパテは、その戦いで剣を使わず、傷ひとつ受けることなく、ただ敵から分捕るだけの、圧倒的な勝利、完全な勝利が与えられたのです。彼らは神様に従った結果、圧倒的な勝利を得ましたが、そこに至るまでには、大きなポイントがありました。そのポイントが、祈りです。

・問題は絶好のチャンス

 ヨシャパテは敵を見たとき、恐れていました。しかし、恐れていましたが、逃げたのでもなく、投げ出したのでもありませんでした。彼は、本気になって主に向かい、ひたすらに祈ったのです。そして、自分だけでなく、女も子どもも、ユダの国民全員に断食を呼びかけ、国として、神様の前に身を低くし、本気で祈ったのです。

 私たちの人生の中にも、病気や経済、あるいは会社や学校、様々な所で、本当に恐れてしまう事が起きて来ます。ある意味、絶望や不安・恐れに襲われることが起きるのです。

 しかし、この時こそ、イエス・キリストを信じる、クリスチャンの絶好のチャンスです。なぜならば、その問題や困難が、私たちを神様の前に招くからです。本気の祈りと叫びが与えられるからです。それが、私たちが神様を体験するための、チャンスなのです。

・いと高き方

 彼らは、本当に死を目前にまで、追い詰められていました。追い詰められれば、思わず「助けてください。」と言うと思いますが、ヨシャパテの祈りは違いました。彼は、まず初めに、神様を礼拝し、ほめたたえたのです。

神様は、全知全能でいと高き神です。それは、私たち、信じる者だけにではなく、神様を信じていない人々にとってもそうなのです。だから、この方に祈るとき、例え信じていない人の人生にも、神様の手は、働かれるのです。この事を知るとき、私たちの祈りに対する期待と、幅は広がります。私たちは、すべてのものよりも、はるかに高い、いと高き方に祈っているのです。

・神様に目を向けて祈る

 彼は、自分に力がないこと、どうすれば良いかも分からない事を認めていました。その上で、彼は「ただ、あなたに目を注ぐのみです。」と言って、祈りました。彼の目は、その絶体絶命の状況を見ていませんでした。彼は、神様に目を向けて祈ったのです。それは、あきらめでも、投げ出しているのでもありません。「ただ、あなたにより頼みます。」と、彼は祈っていたのです。

 

 私たちの人生の中にも、どうすることも出来ない、どうしていいか分からない事が起きてくる事があります。自分に関しても、自分の愛する人に関しても、なんとかしてあげたくとも、どうすることも出来ない事があるのです。しかし、その時に、神様に目を向けて、祈ってください。「どうすることも、出来ません。力もありません。ただあなたに目を向けるだけです。」と。

 神様に目を向け、祈るときに、神様の手は働くのです。

(文責 千多冨二男)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしも長崎教会

2010822日 主日第2礼拝メッセージより