『神様が与えられる訓練』

              説教箇所 へブル人への手紙12513節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 神様は私たちに、懲らしめや訓練を与えられます。それは、私たちに対する裁きや罰ではありません。神様が与えられる懲らしめや訓練は、本当に私達の事を愛しておられる神様が、私達を育み、立て上げるためであり、私達が、神様の用意しておられる計画に入っていくために、許されるものなのです。

・懲らしめと訓練は必ず来る

 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」(5) とあります。これは、主の懲らしめはあるということです。そして、それを適当に扱ってはならないのです。神様の懲らしめをしっかり受け止める時、その懲らしめを通して、神様が用意しておられる祝福を受けられるのです。そして、その懲らしめによって、神様の恵みや、祝福、神様の深い愛を知るのです。また、主に責められて弱り果ててはなりません。懲らしめと責めは、愛する者に対してであり、受け入れる子に、神様はムチを加えられます。神様は私達をわが子のように愛しておられ、私たちがどんなに不十分で弱かったとしても、そのままの私達を受け入れてくださいますが、そのままでは終わらせられません。神様は、私達を成長させ、立て上げて、神様が用意しておられる、もっと大きな祝福の道へと、導かれるのです。

 どんな人でも、私たちは基本的に、罪の方へと向かってしまいます。神様が用意している道とは違う道です。そして、その道を正しいとさえ思います。それは、とんでも無いことです。自分が正しいと思う道を行くと、一時的には喜びを感じるでしょう。しかし、それでは神様が用意しておられる、祝福や勝利を見る事が出来ません。だから、神様は私たちに懲らしめや、訓練を与えられるのです。

・訓練と思って耐え忍ぶ

 モーセは同胞の民である、イスラエル人を救うためにエジプト人を殺してしまい、ミデヤンの荒野に逃げて、40年もの間、荒野をさまよいました。彼は帝王学を学んでいました。指導者になるものと、自分も人々も思っていたでしょう。しかし、荒野に追いやられました。しかし、これは彼への神様の訓練でした。彼はこの荒野で、忍耐を学んだのです。また、神様は彼にさらに訓練を与えられました。荒野の40年を過ぎた後、神様はイスラエルの民をエジプトから引き連れていくという使命を彼に与えられましたが、神様は彼を紅海の方へと導かれたのです。彼は、荒野に40年いたので、十分に荒野の事を理解していました。もちろん、このまま進んでいけば、紅海とエジプト軍にはさまれ、追い詰められる事も知っていたはずです。帝王学を学んでいた彼には、民を先導し、もっと安全に思える地に導くことも出来たし、40年も居たならば、逃げる道も知っていたかも知れません。しかし、彼は神様の声に従って、紅海の方へと進んだのです。その結果、彼は紅海が二つに分かれるという神の奇蹟を見たのです。この後もモーセは荒野で40年さまよいます。これは神様の訓練でした。しかし、その訓練の中で次々に現される神様の奇蹟を見た彼は、忍耐と共に神様に服従する事を学んでいったのです。

 懲らしめと訓練を受けていくとき、忍耐と共に、神様の素晴らしさと愛の深さを見ます。そして、それは神様に従って行きたいという心が与えられていくのです。

 私たちは人間ですから、誰にも感情があります。喜ばしいと思えないことも、悲しいこともあります。しかし、その中で、神様の御手を認めて、感謝し賛美して行く時に「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(11)とあるように、神様の与えられる豊かな実を結ぶことが出来るのです。

 

 懲らしめと訓練は許されます。その中でつぶやくのでもなく、文句を言うのでもなく、しっかりと神様の愛を受けとめて、忍耐と神様に服従する事を学びながら感謝していきましょう。その時、神様は私たちに、たくさんの祝福を与えてくださるのです。

(文責 千多冨二男)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

20101017日 主日第2礼拝メッセージより