『十字架を負った先にある祝福』

              説教箇所 使徒の働き1619節〜34節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 パウロとシラスが、獄中で神様に向かって心から賛美を歌ったときに、大逆転が起こりました。では、彼らはどういう状況のなかで賛美をし、その時、神様は何をなされたのでしょうか。

・神様の栄光の前に許された十字架

 マケドニア地方第一の町ピリピに、福音を伝えるため、彼らはこの町に幾日か滞在しました。その後、彼らが祈り場に向かって行く途中、占いの霊につかれた女奴隷が現れ宣教を邪魔しました。パウロたちは、その女奴隷についている占いの霊(悪霊)を追い出しました。悪霊は去っていき、彼女は救われて自由になりました。しかし、その事によって彼女の主人達は憤慨しました。なぜならば儲ける望みがなくなったからです。彼女を使って、金儲けをしていた彼らにとっては、彼女が自由になることより、金儲け出来なくなったことが問題だったのです。彼らはパウロとシラスを捕らえ訴えました。

 主人達は役人にパウロとシラスを渡し、群衆たちもパウロとシラスに反対して立ったので、長官達は、ふたりの着物をはいでムチで打つように命じ、何度もムチで打たせてから、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせをかけます。彼らはついに投獄されてしまいました。

 彼らは神様に従ってマケドニアに来て、福音宣教の働き、使徒としての使命をまっとうしていました。神様の御心を行っていたのです。それなのになぜ、こんな試練の中を許されたのでしょうか。結果的に言えば、彼らはここから大逆転を見て、神様の大いなる栄光を見ました。しかし、その直前に、彼らは実際に痛みを通り、神様に従って宣教をしたばかりに血を流しました。人間的に言えば、なんでこんなことが許されるのかと思えるようなところを彼らは通ったのでした。

 

・パウロとシラスの信仰

 ムチ打たれ、投獄されたパウロとシラスは何をしていたのでしょう。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると。」(25節)彼らは投獄されたその夜、血を流しながらも、神様に向かって賛美をしたのです。神様に従った結果、このような事が起きたにも関わらず、神様に賛美をしたのです。それは、神様が賛美されるべき方であるからです。彼らはこの状況の中でも賛美を止めることはなかったのです。

 私たちの人生にも、教会にも必ず戦いはあります。しかし、その状況が例えどんなに最悪だったとしても、そこで私たちが神様に向かって賛美をささげ、全存在を持って、神様を礼拝する時、そこに神様の手は、伸ばされていくのです。

 

・現わされた神の栄光

 彼らが賛美をしていた時、突然、大地震が起こりました。そして、獄舎は揺れ動き、扉は開かれ、鎖が解けてしまいました。奇蹟が起こったのです。確かに彼らにとって、ムチ打たれたことは十字架でした。しかし、その十字架を彼らが引き受け、感謝と賛美を持って神を礼拝し、信仰の歩みを続けたとき、神様の栄光は現れたのです。彼らが獄中で賛美をした時、彼らは神様の奇蹟を見ました。しかし、その奇蹟は彼らを助けるだけではなく、そこにいた囚人たちを変え、看守の家族を救ったのです。

 

私たちも、苦しみや傷みを覚えるとき、どうしようもない状況が許されたとき、彼らと同じように、感謝と賛美を持って歩んでいきましょう。その時、私たちの家族や友人、職場や学校で奇蹟が始まります。

(文責 千多冨二男)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2011515日 主日第2礼拝メッセージより