『イエス・キリストのしもべにある喜びと平安』

             聖書箇所 ピリピ人への手紙112節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 ピリピ人への手紙は喜びの書簡と言われています。これはパウロが獄中からピリピの教会に書いた手紙です。ピリピの町は繁栄していました。しかし、ピリピの教会の人たちはぶつかりがありキリストにある喜びがありませんでした。一方、パウロはキリストと共にあったので獄中の中にいても喜びに満ちていました。

 

パウロは自分のことを「キリストイエスのしも」と書いています。「しもべ」とは「奴隷」という事です。神様のことを知らない人にとっては、マイナスのイメージを受けることばかもしれませんが、イエス様を知らない人、救われていない人は罪の奴隷です。また、何かに縛られています。自分、他の人、お金、悪習慣などです。クリスチャンでも本当にキリスト・イエスのしもべでなければ不自由なのです。痛んだり傷ついています。人の目評価に捕らわれたりします。しかし、キリスト・イエスのしもとなる時にさまざまな思い煩い、罪、サタン、人の目・評価から解放されて真に自由になります。どのような困難が許されても喜ぶことができます。そして、輝いて生きます。イエス様は永遠の愛で私たちを愛してくださっているので、その方のしもとなることは素晴らしいことです。

パウロはキリスト・イエスにある聖徒、監督、執事にこの手紙を書いています。この聖徒には、特別な聖人ではなくイエス様を信じた全てのクリスチャンという意味があります。イエス様を救い主と信じ悔い改めた時、キリストイエスを着たので聖なる者とされました。私たちがどんなに罪深くても悔い改めると聖められます。私たちの罪が聖められるから聖となるのではありません。キリスト・イエスを着ているから聖となるのです。

パウロはピリピの人々に「恵みと平安があるように」と書いています。本来、受けるに値しない者が受けるのが恵みです。報酬ではありません。私たち一人ひとりに恵みが必要です。自分のことを祈る時も、周りの人のためにとりなす時も「神様の恵みを受けれるように」と祈ってください。恵みに生きていないクリスチャンは律法主義に生きます。それはとても窮屈になります。クリスチャンが恵みに生きると自由になります。

恵みが注がれると平安がきます。何が起こっても絶対に奪われることがないのがキリストにある平安です。本当にキリストイエスにある人は追い込まれても最悪の状況でも平安に満たされています。

私たちもイエス様の恵みを受けて喜びと平安の中を生きてゆきましょう。

(文責 久保田望)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしも長教会

2011年7月31日 主日第2礼拝メッセージより