『主が与えられる志』

         聖書箇所 ピリピ人への手紙21218節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 

聖書が言う救いの核とは霊の救いを意味します。イエス様を信じる前、私たちの霊は死んでいます。しかし、イエス様の十字架を信じる時、罪は赦され死んでいた霊が生き返ります。そして、神様と生きた交わりができます。これは私たちが何かをしたからではなく100パーセント神様の恵みです。

一方で、霊の救い以外にも心、体、人間関係、人生のいやし、回復、解放も聖書では救いという意味があります。神様は霊の救いとともにたくさんの救いの祝福を私たちに与えたいと願っています。それらの祝福を神様が私たちに与えるために語られることがあります。語られたら神様の招きに応答してください。

 

神様は私たちに、神様からの志(ビジョン)を与えてくださいます。神様からのビジョンがないクリスチャンは世の中の人と変わりません。大志というと大きいものをイメージする人がいますが、そうではありません。全世界に出ていって福音宣教をするのが大きな志で、すぐ隣り人に伝道するのが小さな志ではありません。もちろん人の目に見たら大きい小さいはあるかもしれませんが大事なのは神様からの志かどうかです。小さくみえても神様が与えた志を喜んでなしていく人に、神様はもっと大きな働きを任されます。大切なのは神様の志に生きることです。神様は教会に個人に志をくださいます。 神様からの志を受け止めていく時、神様の素晴らしい計画が開きます。

しかし、神様の志を与えられても失敗するパターンが2つあります。1つ目は志があまりに大きすぎて現状や能力をみてあきらめる人、2つ目は人間の目に見たら小さいと思える志を語られ、こんなことやって何になるのかと思って神様からの志を受けとらない人です。神様がくださる志に対してつぶやいたり疑わないでください。喜んで感謝して受け止めてください。

神様のビジョンに向かうと、聖めといやしが始まります。自分のビジョンに向かうと一時はいいかもしれませんが世の戦いで痛みます。なぜなら地上は罪人の世界でありサタンが支配しているからです。

パウロは、ピリピの教会の人たちが神様の志を受け、そこに生き、世の中の光として輝くなら、それは自分にとっての喜びであり、殉教してもいいと言い切りました。これがクリスチャンの喜びです。本来、神様のビジョンに生きることはクリスチャンにとって喜びです。

 

主の十字架クリスチャンセンターという群れはリバイバルに召されています。今年起こった、東日本大震災は、終末の時代に入る、産みの苦しみの始まりといわれています。これからもっと厳しいことが世界に始まってきます。でも、その中にあって私たちが永遠に価値ある神様からのビジョンに生きる時、私たちは世の中の光として輝きます。魂の救いのために神様のビジョンを受け、終わりの時代に生きている者として輝いていただきたいと思います。

(文責 久保田望)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしも長教会

2011年9月4日 主日第2礼拝メッセージより