『悔い改めの恵み』

              聖書箇所 マルコの福音書417節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

・悔い改め

悔い改めは祈りの土台です。悔い改めは祈りが聞かれるカギです。この聖書箇所の悔い改めは、神様を信じないで、神様に背を向けて歩いている人に対しての悔い改めを意味します。

神様を背にして歩くと自分の罪の中を生きます。多くの苦しみと痛みを通ります。どんなに誠実に一生懸命生きても、人間は長く生きれば生きるほど罪が大きく深くなります。悔い改めとは、向きを変え、方向転換することです。悔い改めてイエス様の十字架のあがないを信じると、神様の愛の光の中を歩み始めます。あいかわらず罪はありますが、もう罪に支配されて歩まなくていいのです。神様の光に照らされてどんどん聖められていくからです。

ところが、イエス様を信じて共に歩んでも、私たちは血肉の体をもっているので罪があります。血肉の体は罪に縛られ不信仰になります。もちろん、聖霊の特別な恵みを受けて信仰に満ち溢れる時もあります。

罪には大小あります。どんなに大きな罪でも、悔い改めると完全に赦されます。ダビデのように姦淫と殺人の大きな罪を犯しても、ダビデが真実に悔い改めた時、完全に赦されました。しかし、どんなに小さな罪でも、悔い改めないと残ります。神様は赦してくださっているのに、神様の赦しを受け取っていないからです。

明らかにわかる罪もあればそれが見えなくなっている罪もあります。悔い改めていないと罪がわからなくなったり、罪を犯しても平気になるからです。だから、日々、悔い改めることが大切です。

 

・罪は自分で分からない

聖霊に示される罪があります。その罪を悔い改める必要があります。また、ことばを通して示される罪があります。だから、聖書を読むことは、とても大事なのです。神のことばである聖書に触れていないと、私たちは罪がわからなくなります。 

ダビデのように悔い改めがすぐに応えられる場合と、ある時間がかかる場合があります。どちらにしても、その祈りは必ず応えられます。そして、罪を悔い改めると神様の義とされ、罪のない者としてイエス様と同じように見てくださるので、祈りが応えられます。悔い改めが確かになると、神様との関係が生き生きしたものとなります。

神様を信じていても神様との間に隔てがあり、祈りが届かないことがあります。私たちは自分で悔い改めることはできません。だから、神様に罪を示してくださるように祈るのです。罪が示されたら、悔い改めてください。自分を責めることや否定的になることと、悔い改めは全然違います。悔い改めは罪を認め、赦しを受け取ることです。私たちが神様と生きた交りを回復する時、神様は喜んで答えられます。

 

神様は私たちの罪を十字架で完全に赦してくださっています。人は罪を責め立てますが、神様は私たちの罪を責め立てる方ではありません。私たちが罪を悔い改めて赦しを受け取り、もっと大胆に自由に信仰を働かせて祈るのを待っておられます。悔い改めと共に感謝をセットで行うと何も怖いものはありません。神様の全能のみ手が動くのをみるからです。

 

悔い改めは恵みです。悔い改めは希望です。悔い改めは新しい出発です。神様の義を着せられて祝福が始まる舞台です。

(文責 久保田望)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしも長教会

2011年11月6日 主日第2礼拝メッセージより