『いのちを据えて使う』

                聖書箇所 Tヨハネの手紙3章16節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」【16節】

 

・神であるイエス・キリストの受肉

 12月25日はクリスマスと呼ばれ、世の中ではこの日をキリストの誕生日と認識しています。しかし、これは事実とは異なります。この日がキリストの誕生日として祝われるようになったのは、キリスト教を迫害していたローマが、キリスト教を国教としたことから始まります。当時、12月25日は「征服されない太陽の祭り」という異教の祭りの日でした。すでに多くの人に広まっていたこともあり、政治的な妥協政策の一環としてこの日を使い、キリストの誕生日として定めたのです。クリスマスはイエス様の誕生日ではないばかりか、異教の祭りなので、明らかに神様が喜ばれる日ではありません。

 これらの理由から私たちの教会ではクリスマスを祝いません。しかし、イエス・キリストがこの地上に人となって来られたこと(受肉) は非常に重要な真理であり、特筆すべきことです。世にある宗教や異端の多くは、自分が神になることを求めています。しかし、イエス・キリストは神であられる方であるのに、私たちと同じ体を持たれたことは、私たちに理解することなど到底できないほどの驚くべき恵みなのです。時間にも場所にも制約されることない方が、私たちと同じ人となられました。それも、あえて処女マリヤという人を通して、人と同じようにして生まれられたのです。多くの誤解を生むことは解りきっています。それでも、この地上に人となって来てくださったのは、いのちを捨てて、私たち「人の罪」を贖うためであり、そのために人となってくださったのです。

 

・いのちを据えていのちを使い尽くされた方

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。」この捨てるということばには実際にいのちを捨てるという意味の他に、原語から見れば、いのちを据えるという意味があります。イエス様は十字架にかかるときだけ、いのちを捨てられたのではありません。生きている間も私たちのために、そのいのちを据えて使い尽くしてくださったのです。誰よりも遅くまで働き、誰よりも早く起きて祈られました。それによって私たちに愛がわかったのです。

「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」というのは、究極的には殉教を意味しますが、この後の聖書の文脈から言えば経済的なことを言っています。つまりは経済があるならば経済を使って兄弟を助けるように言っています。もちろん経済だけではありません。能力や時間、または心を使い尽くすことが愛であると言っているのです。

 

・愛するためのポイントは感謝と賛美の歩み

しかし注意するべきことがあります。私たちが愛そうとすると、まじめな人ほど頑張ってしまいます。しかし、それは簡単には出来ません。どんなに忍耐強い人であっても、人には限界があるからです。宣教するときに、私たちがこの愛を惜しまずに使うことがポイントですが、人には出来ないからです。では、どうすれば良いのでしょうか。それが信仰に立って歩むことです。私たちに主は大きな恵みを与えられています。感謝と賛美です。この感謝と賛美をしている人は信仰が与えられるので。愛することが出来るようになるのです。

 

私たちが宣教をしていくと、時には不条理を受けたりしますし、十字架を担う事があります。しかし、その時に感謝と賛美を持って歩み、喜んでいのちを据えて私たちが仕えていくとき、確かに神様の祝福が与えられるのです。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター神のしも長崎教会

2011年12月25日 主日第2礼拝メッセージより