『主の愛とカリスマ』

              説教箇所 Tコリント人への手紙141節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」

この愛は私達の感情的な愛ではなく、神様の愛(アガペーの愛 イエス様の完全な愛)の事です。

134節「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒ら ず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

この一つ一つの部分に私達の名前を入れてみてください。一部成り立ったとしても、全てを成り立たせることは不可能です。

しかし、イエスの名を当てはめるとぴったりきます。この愛を追い求めなさいと言っているのです。神様のおっしゃる事に従い、神の言葉に従って行くと、神様から流れてくる完全な愛が流れてきます。

 

聖書は、愛を追い求めるように同じように御霊の賜物、つまりカリスマを求めなさいと言っています。繰り返し熱心に求めなさいと言っていることを見ても、カリスマを用いる事がいかに重要であるかが解ります。

しかも、特に預言する事を求めなさいと神様が言っています。私達がどんなに弱くても全く力がなくても、ちょっと勇気を出して祈り、神様にすがりカリスマを用いるなら、その従った行為を見て神様が技をなして下さいます。

愛するとはカリスマと関わってきます。本当に目の前に痛んでいる人がいて、その人を助けてあげたいと思う時、癒しが必要となります。

カリスマとは恵みです。全く値しないものが受ける事を恵みと言います。私達が踏み出して祈る時、主が働かれます。求めなさいと言う事は、神様の命令です。

私達がもっと大胆にカリスマを用いて人々の為に祈り人々の為に語り、預言して祈る時にもっと私達は神様を体験することができます。多くの人が、かわいそうだなと思っても、愛が無いと言うより解らないでいます。

「私なんて」と思わず、踏み出して下さい。示された事を語れば良いのです。もっと大胆に用いる。手を置いて祈るのは私達の責任です。癒されるかどうかは主の主権であり、口を開くのは私達ですが、語りだされるのは、技をなすのは神様です。

 

主の十字架はカリスマを用いる教会です。しかし、長崎教会は実際カリスマを用いる力が弱いように思います。これは特別な人が牧師や伝道師がやると言う訳ではなく、全てのクリスチャンが、本当にイエス様を愛しているクリスチャンが、私達一人一人が行うのです。今まで不可能と思えることは沢山ありました。

しかし、熱心に祈り求め、カリスマを用いて従う中、沢山の神様の技を見、この群れは大きく成長しました。口を開くのは私達ですが語りだされるのは神様です。本当に神が語られたら必ず成就します。カリスマを熱心に求めてください。

 

(文責 山本美津子)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012
212日 主日第2礼拝メッセージ