『私たちの思いをはるかに超える神の栄光』

               説教箇所 ルカの福音書 84956節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

・恐れずに信じていなさい

 イエス様のところに、会堂管理者のヤイロが来て言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすことはありません。」事実、このあと、娘は実際、本当に死んでしまいます。このヤイロはイエス様が来て、娘に手を置いて祈ってくだされば、例え意識不明であろうと、どんな状態であろうとも、必ず治ると信じていました。ところが、そのヤイロの信じていたことを超えることが起きてしまったのです。

 私たちは、聖書からヤイロやラザロのことを知っていますが、普通で考えたならば、死んでしまったら、これでおしまいのはずです。ヤイロもひどく気落ちしたことでしょう。しかし、その瞬間にイエス様は言われました。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば娘は直ります。」この「直る」ということばは、本来は「救い」と言った方がいいのでしょうが、「治す」「いやす」という意味も含まれています。すでに娘が死んでしまったにも関わらず、イエス様はヤイロに「恐れずに信じなさい」と言われました。

私たちの人生の中でも、どんなに期待していても「もうダメだ。」となってしまう時があります。そんな時に主は「恐れずに信じなさい。」と言われます。なぜならば、その思い通りにならなかったことの向こうに、神様が用意しておられる最善が必ず用意されているからです。

 私たちの計画がくずれたときに、神様の計画が始まります。

それは最も祝福に満ちた計画です。

 

この時、ヤイロはイエス様を信じていました。そしてイエス様が来ていやしてくださるという計画を持っていました。しかし、娘は死んでしまいました。いくらでも文句は言えたでしょう。サタンのせいにしたり、自分自身のせいにしたりしてしまうかもしれません。しかし、誰かを責めることは何の解決にもなりません。そのことをも含めて、神様は全てをはたらかせて、益としてくださることを、信じ続けるならば、その時に神のわざがなされ奇蹟がおこることを、イエス様は教えられたのです。

 

・神のことばの権威といやされた娘

イエス様は、弟子を連れて家に入られました。そこで泣き悲しむ人の姿を見られました。当時のイスラエルには「泣き女」という仕事がありました。そこでイエス様はその人に向かって「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。人々はあざわらいました。イエス様はそのまま娘の両親と、3人の弟子を連れて、娘の手を取り祈られました。その時、奇蹟が起きたのです。イエス様が叫ばれました。「子どもよ。起きなさい。」その時のことを聖書はこのように書いています。「すると娘の霊が戻って・・・。」人間は体と心と霊で成り立っています。一般的には、体から霊が離れることを死と言います。その離れていた霊が娘の体に戻ってきたのです。彼女が起き上がったことは、病気が治っていたということです。主にあって霊が返されたのです。

人間の社会では、体をいやして、心をいやす、もしくは何とか心をいやして体をいやそうとします。しかし、最も根本的な部分に霊があって、その霊が、神の霊に満たされるときこそ、心と体はいやされ、回復するのです。

  神のことばが語られるとき、サタンさえも従わなければなりません。地上のすべてが従わなければならないのです。私たちが、本当に主から来たことばを、キリストにあってかたるならば、それは必ず成就します。

 

自分を責めている人は、もうやめてください。自分も赦してください。自分では考えなかった、神様の計画があるからです。その素晴らしい神様の計画の中を共に歩んでいきましょう。

 (文責 石田雅則)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012
715日 主日第2礼拝メッセージ