『十字架を負う歩み』

                     聖書箇所 マルコの福音書83138 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」は、私たち長崎教会にとっては、核となるみことばです。


御心から遠ざけようとするサタンを退ける

 ここで初めて、イエス様は十字架にかかること、そして三日目によみがえると、はっきりとこの事柄を話されました。すると、ぺテロはイエス様を脇にお連れしていさめ始めたのです。
 そうするとイエス様は、弟子たちみんなを見て、ぺテロに向かって「下がれ。サタン。」と言われました。ぺテロがイエス様のことを思って言ったと思われますが、イエス様はぺテロに「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われます。神のことを思わず、十字架にぶつかってくるサタンの霊であることを言われたのです。筆頭弟子のぺテロは本当にイエス様を愛していたのですが、「下がれ。サタン。」と言われたのです。本当に神さまに中心を置いて、導きや示しを求めないと、御心は分からないのです。

十字架の重要性

キリストがこの世に来た一番の目的は十字架でした。でも、人はこの話で救われません。理解できないのです。イエス様を信じる前は、十字架は関係ありませんでした。しかし今は、十字架によって罪ゆるされています。十字架のない教会は偽物(にせもの)です。
 神の声に聞き従おうとすると、自分を捨て、自分の十字架を負わなければなりません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(34節)ところが、このすぐあとが大事です。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(35節)とあります。自分の思いのままに生きようとする人は、自分を失います。逆に、十字架を負って自分を失うと、逆に自分を見いだすのです。十字架を負う人生は最高です。

誰がいちばん知っているでしょうか

 あなたのことをいちばん知っているのは、間違いなく、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神、三位一体のまことの神です。イエス様は、あなたを知っておられ、本当に愛しておられます。自分を捨てるということは、なくなるのではなく、この方に任せることです。十字架を負うというのは、この方のおっしゃる道を行くということです。
 神さまは本当に祝福を与えようとしておられるので、多くの場合、その時の自分の思いや願いは捨てなければならないのです。でも、神のおっしゃる道に入っていくと、それが実は捨てたり捧げたりしたものが永遠という価値の中で返ってくる道なのです。

神さまは、本当に心から捧げたかどうかを見ます。また、十字架を負って生きると、ないと思っていたものが開かれます。十字架の前で取り返しのつかない問題や失敗はありません。本当に罪を認めて悔い改めると、神はゆるしてくださって、そのマイナスを益にしてくださって、その災いがもたらす呪いを断ち切ってくださいますし、必ず、永遠の価値の中で返ってきます。これが、クリスチャンの醍醐味です。

 (文責 石田雅則)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2013
113日 主日第2礼拝メッセージ