『一粒の麦が地に落ちて』

                        聖書箇所 ヨハネの福音書122336 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

今年、私たちに与えられた御言葉は「栄光を私たちの神に帰せよ。」です。「栄光」と言うと、私たちは華やかな事、素晴らしい奇蹟が起きる事を思いがちです。しかし、イエス様が「栄光を受けます」と言うと、十字架にかかる時の事を示しています。

イエス様は言われました。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と。そして、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と続きます。イエス様の十字架上の贖いの死によって、私たちに永遠の命が与えられる事を、自然界にたとえ話されたのです。

種が種のままだと一粒の種のままですが、種が地に落ちて、自分の形を失くし、養分を全て失ってしまう時、つまり自分を完全になくし死んでしまう時、芽が出て沢山の実を結ぶようになるのです。

・「麦のたとえ」

麦は芽を出した後、必ず一度は死んだようになります。それは、気温であったり、雨が降らない問題であったりします。芽は伸びず、ぐったりと死んだようになり「もう駄目か。もう抜こうか。」と思う程の時を通ります。 

しかし、実はこの時、目に見えない土の中で何が起こっているかと言うと、わずかな水を求め根が地の中で広く、深くしっかり伸びているのです。そんな時、雨が降ると一気に水を吸収し、芽は勢いよく伸びて成長してくるのです。しかし、その後「麦踏み」があり、麦は何度も試練の時を通ります。でもこれは、とても大切な事で、どんな試練の時にも生き抜く、しっかりとした「根」を育てているのです。種をまいた後、一度も死なないで、すんなり芽を出しすくすく育った麦は、何か試練があった時、直ぐに駄目になります。それは、見た目はすんなり伸びて成長していても、地の下にある「根」が張っていないため、直ぐに駄目になるのです。

この「麦」のように、今は目に見える成長が全くなくて、「もう駄目だ見捨てられた」と思える状態の中にいる方はいらっしゃいませんか。実は神様が共にいて、地にしっかりとした「根」を広く深く伸ばして下さっている所なのです。やがて聖霊の雨が降ります。その時、一気に芽を出し、勢いよく成長するのです。

・「自分を捨てたイエス」

神は時間を作り、全宇宙を作られた方、全く罪の無い方です。そのイエス様が「神のあり方を捨てられないとは考えず(ピリピ26)と書いているように、自分を捨て、罪そのものになって、十字架に掛かって、私たちの身代わりに死んで、よみにまで行って下さったのです。「一粒の麦」となってくださったのです。そのお陰で、私たちはこの「イエス・キリスト」を信じるだけ、罪が赦され永遠の命を与えられ、救われるのです。

25節「自分の命を愛するものはそれを失い」とあります。私たちが、自分がやりたいことを1番にするのではなく、神を1番にするには、憎む位の強い力がないと出来ません。(憎む=2番目にするという、ユダヤ人の表現) 日曜日教会を選ぶことは、生活・家族の事を思うと格闘があるでしょう。偶像の問題に関しては、真の神以外拝まないと決めると戦いがあるのです。それぞれに、憎むほどの気持ちが無いと「神」を第一には出来ないのです。イエス様は「わたしについてきなさい、もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」と言われます。日本26聖人は神を褒め称えながら、喜びながら、赦しながら天に帰っていきました。 そこにキリストがいる事の素晴らしさを知っていたからです。

 

「キリストが共にいる事の素晴らしさ」これからの時代最も大きなポイントです。それは時として十字架を負う歩みかもしれません。しかし、それは失うのではなく一番大切な物を受けて、永遠という価値となって
返される「素晴らしい祝福が待っている」という事をあなたに知って頂きたいのです。

 (文責 山本美津子)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2013
127日 主日第2礼拝メッセージ