『天国人として歩む』  

              聖書箇所 ピリピ人への手紙 31721節 メッセンジャー イザヤ木原真

日本26聖人は、公式な記録に残る日本で最初の殉教者です。彼らは西坂の丘で十字架につけられ、処刑された時、刑を下した相手を赦しながら、喜びながら、殉教していきました。それができたのは、彼らに天国への確信があったからです。彼らはこの地上にいながら、天国を生きた現実として体験していました。神と共に生きる喜びを知っていたのです。「死」は誰も逃れることが出来ませんが、クリスチャンであり、「天国人」である私たちは「死」に対する勝利と解決をもっているのです。

                                                                        

「私を見ならう者になってください。」パウロはピリピの教会の人々に、こう言いました。これは、決して「私をあがめなさい」という意味ではなく、唯一あがめられるべき方である、「イエス・キリストに対する私の信仰の姿勢、心の態度を真似して欲しい。」と言っているのです。日本人の謙遜は「私は出来ない」「私はダメです」と言います。しかし、本当にへりくだって「私の様になってください」と言えるような歩み方をしていきたいと思わないでしょうか。

 

クリスチャンであっても、この地上の事だけを見て生きれば、十字架の敵になってしまっています。なぜなら、この地上には悪が満ちているからです。例えば、町おこしや村おこし、学校などの催し物の中には、普通に偶像礼拝が入り込んでいます。もし私達が偶像礼拝をしてしまうならば、楽かもしれませんが、十字架とは敵対してしまうことになります。しかし、「天国人」として、本当に神と共に歩もうとするならば、十字架を伴い、苦しみを通るかもしれませんが、必ず逆転し、多くの祝福を受けます。この地上にいながら、神と共に生きる喜び「天の喜び」をもっと深く、もっと強く知ることが出来るのです。

私たちの国籍は天にあります。死は決して終わりではありません。死がくると、罪のない身体、永遠に神と共に生きれる身体をいただき、天国へと行くのです。26人の殉教者たちはこのことを知っていました。彼らの中にパウロ三木という人がいました。彼は、京都から長崎までの長く過酷な道のりを引かれながら、福音を語り続けました。元武士であったパウロ三木は、処刑の執行責任者である寺沢半三郎と旧知の仲でした。半三郎の兄に洗礼を授けたこともあり、半三郎本人も洗礼を受けようか迷ったこともあるほどでした。それで、寺沢半三郎は処刑するにあたって、パウロ三木の3つの願い事を聞き入れる約束をしていました。しかし、半三郎は当時の太閤豊臣秀吉を恐れ、約束を守ることはできませんでした。しかし、彼は処刑される時、半三郎や秀吉、そして執行人など全ての人に対して「決して憎んでいない。赦している」と言います。それだけでなく、「あなたがキリストを信じ、天国に来ることを願っている。」と言って、喜んで殉教しました。パウロ三木は本当にキリストともに生きていたからこそ、そう言うことが出来たのです。彼のうちに聖霊が住んでいたからこそ、そう言えたのです。他人を赦すと自由になりますが、それは私たちの肉の力によっては出来ません。十字架から注がれてくる力によってそれが出来るようになるのです。

 

「天国人として生きる」とは、父なる神、イエス・キリスト、そして私たちの内におられる聖霊様と共に生きる時その実質が現れてくるのです。「天国人」として、神様の祝福と恵の中をいきていきましょう。

 

 (文責 木原 ヨハネ)

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2014年1月19日 主日第2礼拝メッセージより