『教会』

             聖書箇所 エペソ人への手紙12021節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

ペンテコステ(聖霊降誕日)28年前、神のしもべ長崎教会は、このペンテコステの日から働きがスタートしました。この日は、イエス様が十字架にかけられた後に復活され、天に上げられ、その後、弟子たちに聖霊が与えられ満たされた日であり、教会史上でも特別な出来事であり、神のしもべ長崎教会としても特別な日になります。

 

・キリストが満ちている

 教会のかしらは、イエス・キリストです。教会には牧師が立てられていますが、教会のかしらはイエス・キリストご自身です。そして、目には見えませんが、教会にはキリストが満ちておられるのです。

「教会」とは建物を指すのではありません。教会とは、言語では「エクレシア」、「呼び出された者」という意味です。どんな場所であっても、私たちが集まって、イエス様を礼拝するならば、そこが教会なのです。そして、そこにキリストが満ちておられるのです。

クリスチャンであれば、例外なく神様の祝福を受けます。しかし、祝福をたくさん受ける人もいれば、ふつうの人もおり、さらには、ちょっとしか祝福を受けていない人がいるのです。その違いはどこにあるのでしょうか。

立派な行いが差を生みだすかというと、そうではないことに気付きます。いくつかのポイントがありますが、特に大きなポイントとしては、教会につながっているか、単純に言えば「教会にいる」ということです。

なぜかと言うと、教会にキリストが満ちているからです。教会にいるだけで与えられる祝福があるのです。

                                                                                                             

・働きと使命と召しとの関係

 働きや使命や召しを考える時、ある方はそれが個人に与えられているものだと考えます。しかし、働きと使命は個人のものではありません。教会を通して与えられるのです。私たちは教会という御体(みからだ)の一部分です。かしらはキリストであり、私たち一人一人はその一部なのです。手には手の、口には口の役割があるように、私たちも同じです。もし私たちが、その体から離れたとしたら、その役割を果たせませんし、使命など行えません。例えその人が、世界一足が速い人であったとしても、足が体を離れてしまったら走れないのです。

 働きや使命、召しは、確かに一人一人に与えられますが、それが開くためのポイントは教会にあるのです。

 

・終末の時代の教会

 「教会であればどこでも良い」と耳にすることがあります。しかし、今は終末の時代、黙示録の時代なのです。その兆候は、世界中のあらゆるところで表れています。黙示録の時代は、携挙と迫害の時代です。黙示録には、携挙は〔教会単位〕で書かれています。また迫害は、政府が直接行なうのではありません。政府に妥協した教会が、教会を迫害するのです。現在でも偶像礼拝を認める教会があります。人には寛容には聞こえますが、これは明らかにおかしなことです。しかし、そのような時代が目前にあるのです。

 終末の時代であることと、召しや使命が開かれるポイントが教会にあることを思うと、属する教会がどこでも良いとは言えません。最悪の場合、教会を迫害する教会もあるのです。

ペンテコステから教会が始まって以来、働きは教会を通してなされてきました。もちろん救いは個人です。しかしそれと同時に、教会にキリストが満ちていて、祝福と使命と働きのポイントが教会にあるのです。

そのためサタンは、いきなり信仰を奪うようなことはせず、私たちが教会から離れさせようと働きます。

ですから、惑わされてはいけません。教会に留まり続け、その祝福を受けて歩んで行きましょう。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

201468日 主日第2礼拝メッセージ