『ベテスダの池』

              聖書箇所 ヨハネの福音書519節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

38年病に伏せっていた人

 このころエルサレムではユダヤ人の祭りが行われていました。具体的な名称は書かれていませんが、恐らく過ぎ越しの祭りであると思われます。この祭りのために人々は集まっていました。現在でも続く大きな祭りです。とても賑わっていました。

しかし病人、盲人、足なえ、弱った人々は羊の門の近くにあるベテスダと呼ばれる池のあたりに伏せっていました。その池には天使が降りてきて、水がかき回された時に、最初に池に入ると病気が治るということが、起こっていたからです。そして、その病人の中に、38年もの間、病気にかかって苦しんでいる人がいました。38年は長い年月です。初めは持っていた病気が治るかもしれない、という期待すら失いかけていたと思います。私たちも同じように、問題を長い期間かかえたあまりに、期待を失っていることがないでしょうか。彼はまさにそんな状態だったのです。

彼は祭りに行く事も出来ず、病の苦しみと、孤独の思いが倍増していた事でしょう。彼にも初めのころは、家族や助けてくれる人がいたでしょうが、病気となり長い年月を過ぎたこのころには、助けてくれる人もなく、自分だけの力では動くこともできず、期待をする事もできず、やりきれない思いでいた事でしょう。

 

・イエス・キリストの姿

イエス様は、祭りには目もくれず、彼のところに向かわれました。祭りで賑わっている場所ではなく、病気で痛んでいる彼のもとに。これがイエス・キリストの姿です。キリストの生涯を見る時、キリストは誰よりも華やかな人生を送られて当然であったにも関わらず、いつも痛み苦しんでいる人々のところへと人知れず足を運び、助けられたのです。

イエス様はその人をいやすことが出来、助けることが出来ます。それゆえ、私たちはイエス様のもとへ、人々を連れて行くのです。人間的に踏み出すのではなく、教会の助けを受けて、しっかりと祈り備えて踏み出しましょう。

 

・ベテスダの池という縛り

イエス様は彼が伏せっているのを見て、「よくなりたいか」と声をかけられました。良くなりたいに決まっています。ですが、このように聞かれたのにはわけがありました。彼は38年もの間、病にふせっていたのです。それだけ長い間病にあると、人はいつしか期待を失い「良くなりたい」と簡単には言えなくなるものです。彼はベテスダの池に入れてほしいと思っていました。その池に入れば治ると考え、そこに縛られていたのです。

彼にとってのベテスダの池が、私たちにもありはしないでしょうか。「あれさえあれば」「これさえ出来れば」私たちは何かに縛られてしまうものなのです。しかし、しかし、イエス様はその池の事にはまったく触れられませんでした。ただイエス様は「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われただけなのです。そして彼をいやしてくださいました。病のゆえに池の存在に縛られていた彼を、イエス様はそのことばだけでいやしてくださったのです。池は関係なく、いらなかったのです。

私たちに必要なものは何でしょうか。何かに縛られ、こだわることではありません。必要なものは、神のことばなのです。

 

 彼は38年もの間、病で伏せっていました。その体は衰え、足はやせ細っていたに違いありません。しかし、イエス様が彼にことばを与え、いやされた瞬間、彼は立ち上がることが出来ました。完全にいやされてしまったのです。

 イエス様はなぜこの時、彼をいやされたのでしょう。それはこの日が彼の時だったからです。私たちの時はいつでしょうか。それは、神のことばが語られた、今、この時、です。

語られた神のことばを握り、踏み出していきましょう。

神のことばが私たちをいやし、力を与え、神様の祝福へと導いてくださいます。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2014914日 主日第2礼拝メッセージ