『神のわざが現れるため』

            聖書箇所 ヨハネの福音書918節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

イエス様は、目的地に向かう途中で、生まれつき盲人の男の人に目を留められました。
イエス様が泥をその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗うように言われ、「その通りにすると目が見える

ようになる」という奇蹟が現されました。

・イエス様の愛
 この人は、生まれつきずっと目が見えなかったので、孤独で、絶望の中にいました。
 しかし、イエスさまは目的地に行く途中に立ち止まり、この人に愛のある言葉をかけてくださいました。
 あなたが人生の中で、この盲人のようにあきらめてしまうような問題に直面するとき、イエス様は道の途中でも心を向け、目を向けてくださる、愛のお方です。

・神さまの素晴らしさをあらわす
 また、イエス様があなたに促しを与えて、あなたを通して他の人に触れようとしていることがあります。
「あなたを通して、いやしたい、助けたい。」と願っている人々がいます。
 聖霊さまが促しているときがあります。
 その促しを大切にしてください。
 踏み出すときに、神さまが働いてくださいます。
 イエス様の弟子たちは、その盲人の目の前で「この人の目が見えないのは、この人が罪を犯したのが原因か、この人の両親が罪を犯したのが原因か」を聞きました。当時の社会では、肉体的ハンディーをもっている場合、「罪の報いを受けた」という考え方が一般的だったからです。

しかしイエス様は、「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。」と言われました。
その病は、「神がどんなにこの人のことを愛しているか、神がどんなに素晴らしい方かを、この人が知る

ための祝福である。」と言われました。

みなさんの人生でも一見、マイナスと思えるようなことが許されるときがあります。
しかしそれはマイナスではなく、神の素晴らしい愛を体験するための祝福です。

 

・自らの意志と選択で

確かに、イエス様が手をたたけば、確かに瞬時にこの盲人の目はいやされました。

しかし、そこであえて目に泥を塗り、盲人なのに「シロアムの池に行け」と言われたのです。

「そうすれば治る」とは言われていませんが、「この方がなさることは、何か意味がある」「きっと見える」と

信じ、奇蹟を期待し、従ったのです。

そして、転んでも石につまずいても、あざけられても、この盲人はシロアムの池に行って洗ったという、その選択と意志、そして信頼とチャレンジが、ここにあるのです。

受動的にではなく、主体的に、自分から、自分の気持ちで、期待して信頼して歩むとき、その奥に神さまが用意されている、さまざまな祝福を見ます。

 

(文責 久保田望)

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

201410 5日 主日第2礼拝メッセージ