『教会とともに祈る』

                  聖書箇所 出エジプト記178-16節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

ヨシュアが率いるイスラエル軍と敵であるアマレクが、レフィデムで戦いました。
モーセ、アロン、フルは丘の頂きに立ち、ヨシュアのためにとりなしました。モーセは神の杖をかざしました。
神の杖には、2つの意味があります。出エジプトした民が紅海の前に来てエジプト人に追い詰められた時に、モーセに向かって叫びました。そして、モーセが神に向かって叫んだとき、神がその叫びに応えてくださいました。モーセが神の杖を掲げたときに紅海が割れました。神がその杖でイスラエルを救ってくださいました。だから、神の杖は、神がイスラエルを救ってくださったという勝利のしるしなのです。

神の杖の、もう一つの意味は祈りです。実際に戦っているのはヨシュアですが、モーセが手を挙げ神の杖を掲げ祈っている時、ヨシュアたちが優勢になりました。ですが、祈りの手が落ちたときアマレクが優勢になりました。はっきりと、祈りがあるとき戦いは優勢になり、祈りがないとき劣勢になりました。
モーセは、旧約時代の最大のとりなし手です。しかし、そのモーセさえも手が重くなって一人では祈り続けることができませんでした。しかし、アロンとフルがモーセの両腕を支えた時に祈り続けることができました。
モーセは謙遜でした。モーセは、自分にはヨシュアが勝つまで一人でいのり続けることはできないということを知っていたからです。だから、アロンとフルを連れて行きました。アロンとフルの支えがあったので、日が沈むまで、ヨシュアが勝利するまで、祈り切ることができました。
私たちも、あることに関しては明確な勝利を見るまで、祈り切らないといけません。しかし、一人では祈り続けることができません。私たちは一人では力がなくても、教会に支えられると祈りきることができます。みなさんもヨシュアのように職場、学校などで実際に戦っていると思います。決して一人で戦わないでください。この年、この聖書箇所が、この教会に与えられたのは、教会と共に戦い共に祈るように、神様が導いておられるからです。どんなに大きな戦いがあっても、教会のとりなしを受ける時に勝利を見ます。

もう一つは、あなたがモーセになるべきときがあります。あなたの愛する家族や、大切な人に関して教会の助けを受け、あなた自身が祈ることが重要です。教会がバックについて、ともに祈るときに祈り切ることができます。
また、ある方はアロンとフルになるべき時があります。アロンとフルのように祈りを支えるのです。
新約時代、神様は教会を通して働かれます。ペンテコステの時、弟子たちが集まって祈っているところに、聖霊が臨みました。大宣教命令も、個人ではなく集まって弟子たちが主を礼拝していた時に語られました。
一人ではなく、教会で共に祈る時に神が働かれます。
私たちの肉には限界があります。一人で祈り続けることはできません。モーセでさえもそうでした。
しかし、できないからといって落ち込む必要はありません。教会に来て祈る時に、神の御手が動きます。業をなされるのは100パーセント神様です。だからあなたがどんなに弱くても、欠けがあってもかまいません。

全宇宙を創造され、全てをすべ治めておられる真の神様は、十字架にかかるほど命をかけて私たち一人一人を愛しておられます。その方に向かって手をあげて祈ると、あなたの愛する方が経済、病、人間関係などで深く苦しんでいたとしても、この地上で解決できない問題は何一つありません。その鍵は祈りです。教会に来てアロンとフルの支えを受けて祈るなら、この年、神の御手が動くのを見ます。今年は救われて導かれてくるという示しがあります。
共に期待して神様にいのりましょう。 神様があなたに、あなたの愛する人々に勝利を与えてくださいます。

(文責 久保田望)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2014112日 主日第2礼拝メッセージ