『与えられた信仰を通して起こされるわざ』

                   聖書箇所 使徒の働き14810節   メッセンジャー イザヤ木原真牧師

この箇所は、生まれつき足の利かなかった人を、神さまがパウロを通して瞬時にいやし、立てるようにしてくださったところです。信仰は重要で、神さまは信仰を通して奇蹟をなさいます。

ただ、よく「信仰が強い・弱い」など言われていますが、信仰は私たちが頑張って作り出せるものではなく、神さまが与えてくださるものです。では、どうすれば与えられるのでしょうか。

 

・信仰が与えられる

この人は生まれつき歩けず、そもそも歩くこと自体がイメージできなかったであろうと思います。

910節では、この人はパウロの話すことに耳を傾けていますと、パウロがその人に目を留め、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言うと、その瞬間にいやされました。

「いやされる信仰があるのを見て」というところがカギです。

おそらくこの日まで、歩けるようになるなど考えられなかったと思います。

しかし、パウロの話すことを聞いた結果、その信仰が与えられ、歩けるようになる姿を描くことができ、信じることができたのです。

何とかして信じるのではなく、主の恵みによって心から信じることができれば、それが信仰です。

 

・パウロの宣教

この前後とTコリ215節を見ると、パウロは福音を宣教し続けていたことが分かります。

パウロは博学ですごい知識がありましたが、そのパウロが、「十字架以外には何も知らないことに決心した。」と言っています。福音とは、イエス・キリストのことです。

つまりパウロは、イエス・キリストの、福音、十字架と復活、みことばを語ったのです。

Uテモ4章で、パウロは「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりしなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と、テモテに言っています。

 

・神さまに目を留め、みことばに触れる

イエス・キリストに目を向け、心を向けるとき、神さまから信仰が与えられるのです。

問題を見ていると不安や恐れが来ますし、病を見ていると感謝をしても暗くなっていきます。

イエス様は、私たちの罪や呪い、病などのために、十字架にかかられ、贖ってくださいました。

しかし今、病などがあるなら、それには意味があります。

そして、イエス様を見上げ、みことばに触れるとき、その意味が分かり、信仰が与えられるだけでなく、信仰が育まれるのです。

 

中心は2つで、ひとつは十字架と福音、もうひとつはみことばそのものです。

この信仰が与えられると、いやし奇蹟・救いが起こり、力が来て、不可能が可能になります。

信仰が弱くても落ち込む必要はありませんし、クリスチャンでも不安や恐れはあります。

からし種ほどの信仰があれば奇蹟は起こり、応答する時に始まります

みことばに力があります。主に期待してください。

(文責 石田雅則)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2015621日 主日第2礼拝メッセージ