『盲人の目を開けたイエスの愛』

―シロアムの池に行って洗いなさい―

                聖書箇所 ヨハネの福音書91〜7節   メッセンジャー イザヤ木原真牧師

1節に「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」とあります。

イエス様は目的地があり、そこに向かわれている途中にわざわざ立ち止まり、この盲人に目を向けられたのです。

イエス・キリストは、人々が起きる前から、人々が眠るまで、時間を使われる程とても忙しいお方でしたが、途中で立ち止まり、時間をかけて、この盲人に目、心を向けられたのです。

人は、能力やお金や才能、立場などがなくなると、傍らを通り過ぎます。

しかし、イエス様はそのような時でさえも、決して忘れられません。

あなたの傍らに立ち止まってくださり、どんなに忙しくても目を向けてくださいます。
 

・マイナスや最悪がある理由

2節で弟子たちが「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と、イエス様に質問しました。

弟子たちのことばは酷いことばの様に思えますが、当時の社会では普通の考え方でした。

この様なことは、盲人はいつも聞かされてきたことだったのです。

しかし、イエス様は3節で、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と、全然違うことをおっしゃいました。

マイナス、最悪に見えることは、神のわざが現れるためであるとともに、神の愛、力、奇蹟を、皆が知るためだと語っておられるのです。

 

・期待して信仰を持って踏み出す

6節に、「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。」とあります。

イエス様は「見えるようになれ。」と言われず、あえて普通には有り得ないことをなさいました。

しかし、生まれつきの盲人は、イエス様の初めて聞いたことばで、このイエス様が泥を塗って来られたのだから、この後に何か起きると期待出来たのです。

ぜひ自分のことや、愛する人のことでも、神様にある希望、ビジョン、幻が与えられるよう祈って頂きたいと思います。
 7節で、イエス様は「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」と言われました。この時、「治る」とは言っておられないのです。

この盲人は希望を持っていたから、泥を塗られて、周りの人から馬鹿にされたり、転んだりしたとしても、この人は信仰を持って池まで行ったのです。

この時、彼は期待してシロアムの池に行き洗いました。その時に目が見える様になったのです。
 神様に語られていること、特別なことでなく小さなことでも神様に期待して応答する時、必ず応えられるのです。事をなさるのは神です。小さなことを行い、偉大な神様に助けてもらいましょう。その神様に期待して頂きたいと思います。

(文責 工藤恵美子)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

201510 11日 主日第2礼拝メッセージ