『祈りと共にある選ばれた者の祝福』

     聖書箇所 ヨハネの福音書2115-23節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

1節には「もう一度ご自分を弟子たちに現れされた。」とあります。

そして弟子であるペテロたち7人は再び小舟に乗りましたが、その夜は何もとれませんでした。

戻って来ると、イエス様は岸べに立たれていましたが、弟子たちは分かりませんでした。

「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と言われ、弟子たちが「はい。ありません。」と答え、イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます。」と言われました。

彼らは反抗する力もなく弱っており、そのとおりにするとまた大漁でした。

このことでペテロは、イエス様の愛が初めの愛と変わっていないことを知りました。

9節に「陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。」とありますから、「失敗してもう何もない。」と思っても、イエス様は自ら、弟子たちに備えられたパンと魚の様に、必要なものを備えて下さっているのです。

そして彼らが食事を済ませたときに、イエス様はシモン・ペテロに言われました。

ずっとペテロは、イエス様に会って以来、ペテロ()と呼ばれていました。

しかしこの時は、シモン(揺らぐ葦)の「ヨハネの子シモン」と言われたのです。

イエス様は、「ふらふらしたシモンのままでいい、そのあなたに聞く。」とおっしゃったのです。

「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と言われました。

ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と言います。

そしてイエス様は「わたしの子羊を飼いなさい。」と言われたのです。

イエス様の愛(アガペ)は完璧で、「その様な愛でわたしを愛してくれますか。」と言われたのです。

ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」、つまり「とてもあなたの様な愛では愛せませんが、私の愛せる最高の愛(フィレオー)で愛します。」と言ったのです。

この時、「たとい全部のものがつまずいても私は決してつまずきません。」と本気で言ったことを思い出し、心の傷に触れたのでした。

あなたを本当に祝福しようとする時や用いようとする時、主は痛みや傷などに光をあてて触れて来られることがあるのです。

ペテロがイエス様を3度裏切ったので、3度裏切ったところに光をあてられたのです。

しかし、それを通して逆に、ペテロは3度裏切った失敗から完全に解放されたのです。

イエス様に「愛します。」とはっきり言ったところから「わたしの子羊を飼いなさい。」と神様からのことばをもらったのです。

19節でペテロに、「わたしに従いなさい。」と言われました。

愛するとは、イエス様について行くことなのです。

しかし「主よ。この人はどうですか。」(21節)と、ヨハネのことを聞いてしまいます。

イエス様は、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。
神様は、あなたの失敗したところまで来て下さるのです。

そして弱さをもったまま、欠けのあるままでいい「愛してくれますか。」と言って来られます。

「はい。愛します。」と言う時に、「わたしに従いなさい。」と召してくださるのです。

人と比較することも競争することもありません。

「あなたはわたしについてきなさい。」と言ってくださるその主について行って頂きたいと思います。

 (文責 工藤恵美子)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2016
313日 主日第2礼拝メッセージ