『神様の前で礼拝する』

聖書箇所: 第Uサムエル記6章12〜23            メッセンジャー:イザヤ木原真牧師

6章全体を通して学んでいきたいと思います。ダビデは神の箱を彼の町に運び上ろうとして民とともに出かけました。彼らは神の箱を新しい車に載せて運びました。みなが喜びに満ちていました。こうして彼らはナコンの打ち場まで来ました。そのとき牛が神の箱をひっくり返しそうになりました。神の箱がひっくり返ったら困ると思いウザという人が神の箱がひっくり返らないように押さえました。すると、ウザは不敬の罪のために神様に打たれ死んでしまいました。人間的に見たらウザが神様に打たれたことは理解できません。どうしてウザの行動が不敬の罪になり彼は殺されたのでしょうか。神の箱は神様のご臨在を意味します(民数記より)。つまり神様ご自身がおられることを意味します。旧約時代は罪深い人間が神様ご自身に安易に触れてはならなかったのです。しかし、新約時代は違います。神様の一人子イエス様が全人類の罪を引き受け十字架にかかってくださいました。その十字架を通して悔い改めるとき私たちの罪は完全に赦されます。そしていつでも神様のご臨在に触れることができるのです。これは恵みです。

ウザが神の箱に安易に触れ打たれたのでダビデは神の箱を彼の町に運ぶことを恐れました。そのためオベデ・エドムの家に神の箱を回しました。神の箱がとどまったときオベデ・エドムの家族全員と彼に属するすべてのものが祝福を受けました。オベデ・エドムたちが祝福を受けたことをダビデは聞きました。そこでダビデはオベデ・エドムのところに行って神の箱をダビデの町に運び上りました。ダビデは神様の前で力の限り踊り喜びに満ちて神の箱を運びました。神の箱を通してご臨在される神様を喜びました。ついにダビデの町に神の箱を運び終えました。ダビデ王たちが神の箱を運び上ったのをダビデの妻ミカルが窓から見おろしていました。神様を喜び踊っているダビデの姿を見たミカルは彼をさげすみました。こうしてダビデたちは神の箱を天幕に安置しました。ダビデは神様に全焼のいけにえ(献身を意味する)と和解のいけにえ(感謝を意味する。新約時代では十字架と十字架を通しての感謝のこと)をささげました。ささげ終えた後、王様であるダビデは民を祝福しました。そして民全員に食物を分け与えました。その後ダビデとダビデから神様の祝福を受けた民はそれぞれの家に帰りました。ダビデが帰宅すると妻のミカルが彼を迎えに出て来てこう言いました。イスラエルの王が立場をわきまえないで上着を脱ぎ部下の前で踊ったりはねたりしているのは恥ずかしいことだと。ミカルにはダビデと民しか見えていませんでした。彼女は神様を見ておらず人間を見ていたので高ぶってしまいました。そのため神様が喜ばれることをしたダビデをさげすんでしまいました。結果ダビデを通して本来ミカルが受けるべき祝福を彼女は受けることができませんでした。ミカルには死ぬまで子どもができませんでした。当時、子どもを授かることは祝福を意味します。もしミカルがダビデをさげすまなかったらたくさん子どもを授かっていた可能性があります。子どもを授かるという祝福だけでなくさらに多くの祝福を受けるはずでした。さげすんだミカルに対してダビデはこう言います。「あなたの父(サウル王)よりもサウル王の全家よりもむしろ私を選んで君主に任じられた主の前なのだ。主の前だから喜び踊るのだ。あなたは見下げるかもしれないがそれでもいいのだ。どのように卑しく見えたとしても部下たちに敬われたいのだ。」神様を喜んで生きることが本当に部下から敬われることだとダビデは知っていました。ダビデは人を見るのではなく神様を見ていました。

神様のご臨在があるとき祝福を受けます。神様のご臨在が豊かに注がれるカギは十字架を通して神様を見上げ喜びをもって神様をほめたたえ賛美することです。まずは日曜日教会で神様を礼拝し祝福を受けそして遣わされた場所で神様を礼拝する力を受けましょう。人を見るのではなく神様を喜び礼拝し続ける時溢れんばかりの祝福を本人も周りの人々も受けます。癒し、奇跡、解放の御業と問題の解決を神様がなしてくださいます。神様に期待して心から礼拝をささげていきましょう。

(文責 久保田望)

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2007年10月21日 主日第二礼拝メッセージより