『主がお入用なのです』
聖書箇所:マルコの福音書11章3節,22節〜25節 メッセンジャー:イザヤ木原真牧師
(聖書箇所:マルコの福音書11章3節)
「主がお入用なのです」とイエス様が語られた背景を見ていきたいと思います。時期はイエス様が全人類の罪をあがなうため十字架にかかられるちょうど1週間前でした。十字架のあがないをエルサレムでなすためイエス様は王の王として入城するところでした。イエス様はエルサレムに王の王として入城するため子ロバを必要とされました。子ロバなら何でもよかったわけではありません。イエス様は明確に子ロバを指定されたのです(11章2節)。エルサレム入城の際に用いられた子ロバはイエス様が選ばれた子ロバだったのです。
神様は私たち一人一人を必要としておられるのです。私たち一人一人が置かれている教会、家庭、職場、学校に神様が私たちを遣わされました。神様が一人一人をその場所に必要としておられるので名指しで選ばれたのです。人間は他の人を必要とする時もありますがいつもそうではなりません。ですが、周りの人が何と言おうとも自分自身で遣わされた場所に居ても役に立たないと思ったとしても、真の神様があなたを必要としておられるのです。代わりとなる人は決していないのです。教会、家庭、職場、学校など神様が遣わされた全ての場所に神様は確かに私たち一人一人を必要とされているのです。
イエス様は地上での核の使命である十字架のあがないをなすためにロバの子を選ばれました。私たち一人一人も神様の働きを担うために選ばれたことをどうぞ覚えておいてください。神様に期待して一人一人が遣わされた場所における神様のすばらしい栄光を見ていきましょう。
(聖書箇所:マルコの福音書11章22節〜25節)
神様を信じるとは神様を拠り所とすることです。この聖書箇所では神様を信じていることのあらわれとして3つのことが書かれています。
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神様が語られたことを告白する(11章23節)
神様を信じ告白するとき山でさえ動くとイエス様は語られています。山は地上で動かないものの代表です。つまり、これは神様を信じ神様が語られたことを信じ告白する時、絶対に不可能と思えることでも可能になると神様はいっておられるのです。神様が語られたことを告白することは神様を信頼しているということのあらわれであり重要な意味合いがあります。
それぞれの言葉の成就までに神様の時があります。すぐに成就する場合もあれば待たされることもあります。ですが、神様の最善の時に必ず成就します。なぜなら神様は真実なお方だからです。
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祈って求める(11章24節)
神様が語られたことを告白するとその通りになりますが、その前提となるのが「祈り求める」ことです。欲しいと思っていると神様の恵みによって与えられることがあります。ですが、11章24節から見ていくと「祈って求めるものは何でも」と書いてあります。明らかに神様の御心に反すること(罪となること)は求めてはいけませんが、それ以外なら“何でも”大胆に求めていいのです。
B赦す(11章25節)
イエス様はのろい、罵声を浴びせられても全ての人を完全に赦し十字架のあがないを全うされました。私たちがどのように罪深くとも悔い改め十字架の赦しを受けるならいつでもためらわずに神様に求めることができます。しかし、十字架の赦しを受けても他の人を赦せなかったら十字架の恵みと力が流れなくなります。もし誰かを赦せなかったら神様の十字架の赦しをいただいて赦しましょう。神様の正しい裁きにおゆだねしましょう。十字架の恵みと力に満ち溢れたすばらしい人生を送るために。
(文責 久保田望)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2007年11月4日 主日第二礼拝メッセージより