『教会で共に祈る』

   聖書箇所:出エジプト記17章8〜16節                    メッセンジャー:イザヤ木原真牧師

 


○使命と働き

エサウの子孫といわれているレフィデムとイスラエル民族は戦うことになりました。

その時、モーセは、ヨシュアに、幾人かを選ぶように命じます。これは、千もしくは、万の上にたつリーダーを          選ぶようにということです。ですので、ほんの数人で行けと命じたわけではありません。

そしてモーセは、奇跡を行った神の杖を持って丘の頂に立つといいます。ヨシュアは、指示どおりに戦いに行き、モーセとアロンとフルは丘の頂きに登り、手をあげます。これは、祈りを意味します。また、今の私たちの群れに合わせて考えれば賛美と礼拝を意味します。戦いに行った、ヨシュアたち。そして、とりなしの祈りをするために丘の頂きに登ったモーセとアロンとフル、それぞれに役割があったのです。戦う人がおり、祈る人、そして祈りを支える人いる。これは、旧約なので教会はまだ出来ていませんが、新約的に考えればまさに教会です。海外宣教にたとえるなら、行く人がおり、祈る人がいる、そして捧げる人がいるのです。これから、教会が成長し働きが進んで行く中でこのことをはっきりおぼえておく必要があります。ヨシュアの役割の人がおり、モーセの役割の人がいる。そして、アロンとフルの役割の人がいるのです。だれが偉いとか、どれがいいということではないのです。それぞれに与えられた、賜物があり、それぞれに導かれた召しがあるのです。すべてのクリスチャンが伝道する使命があり、祈る特権が与えられていますが、特に伝道に召され賜物が与えられている人がいます。祈ることに、特に喜びをかんじる人がいます。そのように、それぞれ働きと使命は違います。しかし、それが教会なのです。預言をとおして群れに、私のしもべと語られました。しもべには、神様は語ってこられます。これから本格的な宣教が始まります。そして、みなさんには、まずこの神のしもべ長崎教会における働きと使命があります。そしてこの群れにおける働きと使命があり、この終わりの時代における使命と働きがあるのです。そのことをぜひおぼえてください。

○教会で共に祈る

モーセが手をあげている時に戦いは、イスラエルに優勢になったと書いてあります。すなわち、とりなしの祈りがあるときに、賛美が、礼拝があるときに優勢になったのです。そして、その手がおりているときは劣勢になったとあります。実際に戦ったのはヨシュアです。ヨシュアが戦わないことには勝利はないのです。しかし、勝利のカギを握っていたのは、とりなしての祈りであり、礼拝者の礼拝であったのす。ところが、モーセは手が重くなり、石の上に腰をかけます。ここで一つのことが見えてきます。祈ることは重要でしたが、立たなくてはいけない、ということはなかったのです。神様は、律法的な方ではないということをおぼえてください。そして、モーセはアロンとフルの支えを受けます。モーセは、支えを受けたので、最後まで祈り続けることが出来たのです。これは、旧約ですが新約的に考えると、モーセという旧約を代表する祈り手であるモーセでさえ、支えを受けることによって祈ることが出来ました。教会の助けを受けることによって祈り続けることができるのです。一人で祈り続けること、戦うことは短い時間ならばできるかもしれませんが、長い時間になるとほんとうに難しいことです。しかし、それは当然のことでもあります。そこで、落ち込んであきらめてはいけません。わたしたちも、モーセのように、助けを受けて、教会の助けを受けて祈ればよいのです。モーセが支えを受けたように、私たちには、教会が与えられているのです。御体に教会に共に集まって祈るときに神様が働かれるのです。この戦いは、モーセの祈り勝利のカギがありました。しかし、その祈りを支える教会の助けがあったことをぜひおぼえてください。御体で、教会で捧げられる祈りは何一つ地に落ちることはありません。主は、必ずその祈りを聞きとげられるのです。         (文責 モーセ出西光) 

主の十字架クリスチャンセンター神のしもべ長崎教会

2008年2月24日 主日第二礼拝メッセージより