『神の言葉に聞き従う』
民数記13章30節〜14章12節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・神の言葉を選ばなかったイスラエルの民
13章2節で主はモーセに、「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない」と告げられます。この言葉に従ってモーセはカナンの地の偵察にヨシュアとカレブを含めた12名を偵察隊として遣わしました。そしてカナンの地を40日かけて偵察させました。充分な期間を経て、偵察を終えて戻ってきた者たちは、モーセとイスラエルの全会衆にこう報告しました。「カナンの地は乳と水が流れるとても素晴らしい地でした。しかし、この地にはすでに非常に大きく強い民族が住んでいました。城壁も立てられており、私たちが占領する事は無理です。」と。彼らの報告は人間的な考えから見れば確かに正しい判断でした。この報告を聞いた、イスラエルの民はざわつきました。その時でした、偵察に行っていたカレブが民を静めてこう言います。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」偵察に行った、ヨシュアとカレブだけはこのように言いました。ヨシュアとカレブがこう言うには根拠がありました。彼らは現実を否定した訳ではありません。主が共におられ、主の言葉があるから大丈夫だと言ったのです。神の言葉に従い、神の言葉に生きるならばできるのです。しかし、彼等と一緒に偵察に行った他の10人は再び「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」と、彼らは現実を見て占領できないと言いました。これらの言葉を聞いたイスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、その夜、民は泣き明かしました。神の言葉にではなく、占領できないという現実的で、人間的には妥当な言葉を受け取ったのです。そして、ついに彼らはつぶやいて、「死んだほうがましだ。エジプトに帰ったほうがましだ。」と言って主にまで反逆したのです。不信仰となった民衆達にヨシュアとカレブは着物を引き裂いて「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と、神の言葉に立ち続けたのです。この結果どうなったでしょうか。イスラエルの民は「死んだほうがましだ。」と言ったその通りにカナンの地に入ることなく荒野で死んでしまいました。そして、神の言葉に立ち、信じて告白し続けたヨシュアとカレブだけがカナンの地に入って行ったのです。
・モーセのとりなし
神の言葉に立たない不信仰な民を見た主はついに、イスラエルの民を裁き、すぐに殺す事を決断されます。しかし、指導者であるモーセは主の前にひれ伏し、自分を殺そうとまでした、この民達のためにとりなしをしました。主はその祈りを聞き届けられました。すぐに殺される事を思いとどめ、赦して下さったのです。しかし、神は正しく裁かれる方です。イスラエルの民はその場で殺される事はありませんでしたが、カナンの地に入ることは出来ませんでした。不信行な民は荒野で死に、その子ども達が入ることになったのです。神は正しく裁かれるのです。
・聞き従い
主はイスラエルの民にカナンの地から向きを変えて荒野へ行くようにと命じられました。しかし、民は荒野に行きたくありませんでした。彼らは今でも占領は間に合うと、自分達の考えでカナンの地へ戦いに行きます。しかし、もう神の言葉は違うのです。神は荒野へ行けと命じられたのです。彼らは当然この戦いに敗れてしまいました。
ここに至るまで、イスラエルの民は何度も神の奇蹟を体験し、多くの業を見てきました。しかし、彼らは自分の目の前にある現実を見た時、神の言葉に立ち続けることができなかったのです。今は新約の時です。イエス・キリストの十字架があります。例え不信仰になったとしても、つぶやいたとしても、悔い改めて、再び神の言葉に立つならば私達は神の働きを見ます。鍵は神の言葉なのです。神の言葉に聞き従って歩みましょう。 (文責松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2008年3月9日 第2礼拝メッセージより