『占領』
ヨシュア記1章1〜5節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・ 荒野から占領へ
2節「わたしのしもべモーセは死んだ。」主はモーセの従者として仕えていたヨシュアにこう告げられました。モーセがすでに死んだ事をヨシュアが知らなかったわけでも、主がモーセを否定しておられるのでもありません。では、なぜこのように、主はわざわざ言われたのでしょうか。それは、荒野の時が終わり、カナンの地の占領が始まるんだという事を主はヨシュアに告げられたのです。モーセとヨシュアに与えられた使命は全く違いました。主はモーセに40年間荒野で備えるという使命を与えられました。そしてヨシュアには、これまでと全く違う占領するという使命を与えられたのです。モーセは聖書の中で「彼ほど謙遜な人はいなかった。」と書かれるほどの素晴らしい器でした。そのモーセが死んだのです。それはイスラエルにとって節目が来たことを意味しているのです。
私たちにも人生の中で卒業や入学、就職などそれぞれに節目がやってきます。その時、本当に主の声に耳を傾けなければならないのです。過去にとらわれていては主が与えようとされる、新しい示し、新しい導きをとらえられません。イスラエルの民を荒野から占領へと導かれたように、主は私たちにも新しい歩みを導かれるのです。
・ 神の言葉に従って行く
2節「すべての民が立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」と、主は占領を指示されました。行かなければならないのです。カナンの地へ踏み込まなければならないのです。モーセの時にはこのようなことはありませんでした。荒野を40年間さまよい、マナによって生き続けていました。そして、カナンの地には一歩も踏み入れる事もありませんでした。しかし、主はこの時ヨシュアに「行け。」と命じられたのです。当然行く先には先住民がおり、強力な敵がいるのです。そこへ行く事を主は命じられたのです。占領することにより、イスラエルの領土は広くされ、勝ち取って行くのです。行って占領するのです。
6章ではエリコの占領が書かれています。「エリコはすでに渡した。」と主は語られますが、エリコには高く大きな城壁が立てられていました。強大な敵です。主は城壁の周りを回るように命じられ、7周目には大声でときの声を上げるように語られました。そして、その時に城壁がくずれ落ちると言われました。人間的に見たならば愚かに見えます。しかし、ヨシュアはこの神の言葉に従って行ったのです。すると神が語られたとおり、その城壁はくずされ、イスラエルは勝利を得ました。このように、実際的な事柄よりも、霊的な事が先行するのです。この時イスラエルには神の言葉がありました。神の言葉に立ち、彼らが従ったことによって、実際にあった城壁と強大な敵は崩れ去ったのです。霊的な勝利の後に、実際的な勝利を手にするのです。霊的な事柄を軽んじてはなりません。世に縛られていると、霊的な勝利よりも、自分の肉で頑張る勝利を求めてしまい、苦しむ事になるのです。まず霊的な勝利がとられる時、実際的にも神の圧倒的な勝利を得ることが出来るのです。
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神が与える領域
4節「あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日に入るほうの大海に至るまでである。」主は具体的にイスラエルの領域を示されます。それは非常に広大な領域でした。しかし、今現存しているイスラエルを見ると、とても小さな国となっています。このことは多くのクリスチャンのある姿を現しています。神が与える領域は大きいのに、神の言葉に従って踏み出さないことによってその領域を勝ち取れないのです。
荒野が長すぎると多くの人が自分の考えられる範囲の領域で満足してしまうのです。しかし、主は違うのです。主は私たちにとてつもない領域を用意しておられるのです。主の言葉に従う時、与えられる祝福は非常に大きいのです。必ず荒野のときは終わります。そして主は、私たちを新しい舞台へと導かれます。その主に従って行きましょう。(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター神のしもべ長崎教会
2008年4月13日 主日第2礼拝メッセージよ