『神の言葉を信じ、喜び賛美する』
聖書箇所:第U歴代史20章18〜22節 メッセンジャー:イザヤ木原真牧師
南ユダ王国にモアブ人とアモン人の大軍がアラムから攻めてきたまし。絶対絶命、普通に考えて絶滅は免れない窮地に追い込ま
れました。私たちの人生においても、同じように経済において、人間関係においてこのような絶体絶命の窮地に追い込まれる事が
残念ながら起こりえるのです。ヨシャパテは、国として窮地に追い込まれました。その時、ヨシャパテはどう対応し、主の勝利を
見たのかを3つのポイントでみたいと思います。
〜主のもとへ行く〜
ヨシャパテは、この窮地に恐れてしまいます。この恐れるという事は不信仰というよりも、人間として当然の感情です。
しかし、クリスチャンには特権が与えられています。この恐れを持って、全能の神に、十字架にかかられるまでに愛して下さった
イエス・キリストのもとに行く事ができるという素晴らしい希望が与えられているのです。わたしたちは、祈り叫ぶ事ができます。
そして、その祈りを神様は、さげすんだり拒まれたりすることはありません。その祈りを主は、聞き届けられるのです。
ヨシャパテは確かに恐れましたが、ユダ全国に断食を布告します。断食とは、砕かれた心、悔い改めを意味します。
この時、幼子でさえ、断食に参加しています。これは、幼子でさえ、明日死んでしまうかもしれないと理解できるほどに、
窮地に追い込まれていたのです。それほど、南ユダ王国は、人々は追い込まれていたのです。人々は、断食をもって、神様に
叫びました。その時、神様の業が始まっていきました。私たちも、窮地に追い込まれた時、キリストのもとへ行きましょう。
どんなに最悪であったとしても、キリストのもとへ行くなら希望がある事をぜひおぼえて下さい。
〜神は言葉を与えられる〜
彼らが叫ん時、すぐに勝利が与えられたわけではありませんでした。神様は、ヨシャパテたちにまず言葉を与えられたのです。
この時、主の霊がレビ人やヤハジエルの上に望み預言を語りだします。神様は、預言をとおし、励まし、指示を与えました。
見た目には、何も変わっていませんが、神様は、言葉を与えられたのです。多くの場合、まず言葉が与えられます。言葉から
始まり、言葉をとおし神様が働かれるのです。神様は、私たちに語ってこられます。私たちは、神様の語られた言葉を
ないがしろにしてはいけません。神様は約束した事を必ず成し遂げられるのです。神様からの言葉を頂きましょう。
〜神の言葉を信じ、喜び賛美する〜
ヨシャパテは、言葉が与えられた瞬間、何も起こっていのにもかかわらず、主の前にひれ伏し、大声で賛美をし始めます。
これは、この言葉を受け取ったという事です。これが、先取りの感謝であり、賛美です。言葉きた時、その言葉が与えられた時、
すでに成就をしたかの様に、喜び感謝をする。これが、現実の世界で主の働きをするための鍵となるのです。
指示に従い、ヨシャペテたちは、出陣します。そして、軍隊よりも賛美隊を先頭に置くのです。普通のでの戦いでは、ありえません。
しかし、ヨシャパテたちは、はっきり主の言葉を信じていたので賛美隊を先頭に置いたのです。神の言葉が与えられたなら、目に
見える現実に振り回されず、神の言葉を信じ、幻を描きながら、感謝と賛美を礼拝を捧げるのです。これが、神の力を解き放つ
のです。喜びの声、賛美の声を上げ始めた時に敵は、全滅しました。喜びの声、賛美の声をあげるかどうかは、私たちの選択です。
わたしたちは、つぶやく事もできます。感情でなく、神の言葉に立って喜びの声、賛美の声をあげる時に聖霊が私たちを助け
神の業を見る事が、できるのです。この時、ヨシャパテ軍は、弓一本も使わずに圧倒的な勝利をおさめます。
この箇所は、主の十字架クリスチャンセンターに、与えられている御言葉です。ですので私たち一人一人に適応できる御言葉です。
神様は私たちに、この様な圧倒的な勝利を現したいと願っておられます。
そして、その業を私たちが見る時に、人々への証しとなり希望となる事をおぼえて下さい。
(文責 モーセ出西 光)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2008年4月27日 主日第二礼拝メッセージより