『十字架を負って』
聖書箇所:マタイの福音書 16章24節 メッセンジャー:イザヤ木原真牧師
この箇所では、弟子たちに言われたと書かれてあります。マルコの福音書では、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せたとあります
ので、群衆と弟子たち両方に言われています。ただ、このマタイの福音書では、弟子たちと書かれています。どちらにしろ、
はっきりと言える事は、十字架を負って主に従う道は、弟子の道です。私たちは、イエス様の事を本当に愛して、どこまでも
従いたいと願うなら、弟子の道に入って行きます。そして、弟子の道は十字架の道なのです。十字架を負わないで、弟子になる
事は、出来ません。十字架を負わない歩みは、本物の弟子とは言えません。必ず十字架は、ともなうのです。
この十字架の道を歩むにあたって大事なことが2つあります。まず一つ目は、だれでもわたしについて来たいと思うなら、
あなたがイエス様についていきたいと願うなら、求めるなら自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについて来なさいと、
言われているのです。イエス様にどこまでもついていきたいと、願い続けられれば良いのですが、この十字架の道は、私たちの
肉の性質、罪人である私たちが、さけたい道、決して願う事の無いの道であるのです。しかし、私たちの内に住まわれている、
聖霊様は、願っておられる道なのです。もちらん私たちは、クリスチャンになって神様にどんどん造り変えられていますので、
聖霊様の願われる道を心から願える事があります。しかし、多くの場合、Iの内B 私たちが聖霊様の願われる道を願えれる
様になっている時はC 言ってこられます。DならE言ってこられるのです。聖霊の助けが無いと従えない事を言ってこらるのです。
私たちは、神様のおっしゃる言葉に従いたいと願っています。しかし、神様が私たちに語ってこられた時に、ある所までは、従える
のですが、そのある所を超えると、従えなくなったり、嫌になったり、嫌とは言わないまでも、それは言わないで下さい、という様な
事が起こってきます。その時どうすれば良いのか。鍵は祈りにあります。私たちは、本来 従う事は出来ません。従えなくても、
落ち込む必要はありません。従えないのが私たちなのです。そして、私たちは、神様に向かって従わせて下さい、従う力を下さいと
願うのです。従いたいと願う事も出来ない時は、従いたいとく願いを下さいと祈るです。この祈りをするかしないかは、大きな違い
があります。選びなのです。祈りは、きかれます。祈ると聖霊の力がくるのです。この事をおぼえて下さい。
そして、感謝と賛美は超えて行くのです。私たちの教会の名前は、主の十字架クリスチャンセンターです。緑の牧場
花園教会では
ありません。そして、この神様が与えられた名である、主の十字架クリスチャンセンターの中心は、主の十字架のです、十字架を
負って行く教会という事は、最初から言われている事のなのです。多くの海外宣教がなされていますが、主の十字架が中心的に
導かれている海外宣教は、他のグループの行かない所、少数民族伝道と言われています。もちろん、大勢の人々に、向かっても
伝導するでしょう。しかし、中心は人々が行かない所、十字架を負っている人たちの所に行って宣教すると言われているのです。
そして、この教会は、神のしもべ長崎教会という名前が与えられています。しもべとは、奴隷です。たんたんと、主の言われる事に
聞き従うのです。聞き従いの道とは、十字架の道を行く事なのです。そして、この教会の名は、主の十字架クリスチャンセンター
神のしもべ長崎教会なのです。ですので、私たちは、十字架の道を行くのです。しかし、この道は、弟子の王道です。
この道こそ、神の愛をもっと深く知れる道、天で莫大な報いを受ける道、素晴らしい恵みを受ける事の出来る道なのです。
弟子の道は、十字架の道ですが、しっかり担うと、神様の用意しておられる逆転の勝利が備えられているのです。
私たちが、十字架を感謝と賛美をもってしっかりと担うとき、逆転の勝利が起こるのです。この十字架をしっかりとにない
かるく超えて行くポイントは、感謝と賛美なのです。十字架の道を行くとき、感謝と賛美を知っていると、明るく楽しく負っていける
のです。神様は、この群れに教会に、感謝を持って十字架を担う歩みを導いておられるのです。神様からどうかは、吟味する必要
がありますが、神様からきているならば、感謝をもって従って行くとき、計り知れない神の栄光を見るという事をどうぞ覚えて下さい。
そして、神の栄光を見る秘訣であり、恵みの道なのです。
(文責 モーセ出西
光)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2008年6月29日 主日第二礼拝メッセージより