『恐れてはならない』
聖書箇所:ヨシュア記 1章2〜9節 ルカの福音書1章 5〜25、57〜64節 メッセンジャー:イザヤ木原真牧師
この箇所は、モーセが死に、モーセの時代から、いよいよヨシュアの時代、カナンの地を占領する時代へと変わりました。
このカナンの地の占領を見るとき、繰り返し言われている言葉があることに気がつきます。それは 、「強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならない。 」と言われているのです。なぜ、何度も神様が同じ様に、強くあるように語られたか、
それは、ヨシュアが弱さを感じていたから、ヨシュアが恐れを感じていたからだと思われます。ヨシュアが、自信に満ち、意気揚々と
していたとしたら、こうは語られなかったでしょう。ヨシュアが、はっきり恐れを感じ、弱さを感じていたからこそ、神様はヨシュアに、
向かって、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない 。 」 と語られたのです。
ヨシュアは、カナンの地へ斥候に行った際に、カレブと共に、カナンの地の人々が強くとも、主が語られたならば必ず、占領が
できると信じた人でした。彼は信じていました。しかし、恐れたのです。私たちも、信じていても恐れる事があるのです。
では、なにが私たちを恐れから解放するのでしょうか。それは、神の言葉です。6、7節にこう書いてあります。律法、すな
わち、モーセ五書、現代的に言えば聖書全体と言ってもよいでしょう。この律法を口ずさみ離れる事が無く、ふれ続ける様に、聖書
に触れ続ける様に語られているのです。私たちが恐れを覚えるとき、聖書に、御言葉に、ふれ続ける時、強められ、引き上げられ
るのです。
また、主がともにいるので、恐れなくてよいと語られています。これに、勝る事はありません。主の導きに従う時、主の御心に留まっ
ているとき、主がともにいて下さるので恐れなくていいと語られているのです。たとえ、どんな困難や問題が許されても大丈夫です。
なぜなら、主がともにいてくださり、助けて下さるからです。必ず主の手があるのです。神様は、ヨシュアに言われたのは、どんなに
弱さを感じても恐れなくていい。御言葉に触れていなさい。神の言葉に生きれば大丈夫だと語られました。私たちが、神の言葉の
内にいる時、守られるのです。
ルカの福音書1章5〜25、57〜64節
この箇所は、バプテスマのヨハネの両親である、ザカリヤとエリサベツの箇所です。彼らは、聖書に主のすべての戒めと定めとを
落度無く踏み行っていたと書かれています。しかし、彼らには、子どもがいませんでした。聖書では、子どもが生まれる事は、祝福
です。その子どもがいなかったという事は、その祝福がなかった事を意味します。私たちも、毎週教会へ行き、十一献金もし、
神様を愛し、仕えているのに願いが聞かれないとい事があるのです。しかし、自分を責めたり、誰かを責めたりすることは、止めて
下さい。実は、この時、ザカリヤとエリサベツには、バプテスマのヨハネの両親になるいう使命があったのです。バプテスマのヨハネ
は、イエス様が、女から生まれた者の中で、最も偉大な者と言われた人でした。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの道備えを
した人です。そのバプテスマのヨハネを育てる使命があったのです。そのために、長い忍耐を通されたのです。そして、この教会に
は、再臨の道備えが導かれています。はっきり時代は、黙示録がすぐそこに来ている事を、世界情勢をとおして、温暖化をとして
見る事が出来ます。神様は、忍耐をあえて通す事があるのです。ザカリヤは、一生に一度しか出来ない、香をたく奉仕にあずかり
ます。その時、天使ガブリエルが現れるのです。天使は、男の子を生むと、願いが聞かれた事、そして使命を具体的に告げます。
しかし、ザカリヤは信じる事ができませんでした。天使が告げたにも関わらず年齢のゆえに、長く待ちすぎたゆえに信じれなかった
のです。その信じれなかった結果、おしになってしまいした。おしになった事は、裁きでした。彼は、意見も主張もできませんでした。
しかし、この事は、バプテスマのヨハネの父となる最後の備えでもあったのです。このおしの期間、なにも話せない中でも、お腹は、
大きくなっていきます。神様は、真実だったのです。いよいよ生まれ、八日目に割礼をするために、集まり名前を決める事になりま
した。ザカリヤは、反対の中で、名前をヨハネにすると決めます。その時、話す事が出来る様になり、神様をほめたたえたのです。
神に言われた事に従った時に話せる様になったのです。ザカリヤ夫妻は、長い忍耐を通りました。しかし、神の言葉は必ず成就す
るのです。 (文責 モーセ出西 光)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2008年7月27日 主日第
二礼拝メッセージより