『柔和な者』

                       マタイの福音書 55節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」マタイの福音書 5章5節

 
この御言葉は、いわゆる山上の垂訓という、イエス様が山上で語られた言葉です。柔和という言葉のイメージは「優しい」というイメージですが、ここで使われている言葉の意味は「へりくだった者」、つまり心を砕かれた低い者という意味です。モーセは聖書の中で「モーセほど謙遜な人はいなかった」と言われています。そのモーセは40歳の時、使命感と正義感に燃えていました。しかし、その時は失敗してダメでした。その後、荒野で40年間羊飼いとして生き、何も変わらない日々を送りました。ついに40年後、80歳の時に主が使命を語られた時には、モーセは「自分には出来ない。」と言いました。荒野の40年間を通った事で、モーセは砕かれていったのです。自分が弱くされる事により、彼は謙遜な人となったのです。その彼を主は用いて、出エジプトという、まさに主が働かれたとしか言えない働きを担っていったのです。へりくだるとは具体的に2つのポイントがあります。

神様の前に低い
 神の恵みというのは、低いところに流れていきます。ですから神の前に低い人は神の恵みを受けることが出来ます。ほんとうに低い時は、神様が言われる事を自分には無理だと思っても、不可能だと思っても、受けとる事が出来るのです。私たちの頭で納得できない事を受け取る人は本当に低い人なのです。本当に神の言葉の前に低い時、奇蹟は起こるのです。不可能と思えることが出来るのです。しかし、低くなければ私たちは神の言葉を受け取れないのです。

人の前に低い
 相手が自分の立場より上だと思えば、その人の言う事は聞く事が出来ます。しかし、自分が相手よりも立場が上だと思っているときは聞く事は出来ません。人の前でも低くなければ相手の言う事は聞けないのです。
 私たちが神の恵みを受けるために、低くならなければなりません。しかし、私たちはなかなか低くなれません。だからこそ40年間荒野でモーセは砕かれました。80歳になり、本当に低くなる時まで神は待たれたのです。私たちが神の前に低くへりくだる時、神が約束されたものを受けることが出来るのです。

心の貧しい人 マタイ5章3節
 心の貧しい人、それは自分には何もないという事を知っている人です。自分の心には良いものは何も無くても、神のもので満たされたいと願うものが、天の御国を見ることになるのです。神は私たちに、この地上でも天の御国を見せてくださるのです。

 人のものより、神のものを求める心。心貧しく、砕かれた人。その人を通して神は約束の成就に向けて働かれるのです。本当に低くなければ神の働きは出来ません。人の力では出来ないのです。神様ご自身にしか出来ないのです。
 柔和な者となるとき、約束の地を相続するからです。

 

                                         (文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター神のしもべ長崎教会
2008
810日 主日第2礼拝メッセージより