『自分を低くする者』

聖書箇所:ルカの福音書 18章9〜14節                             メッセンジャー:イザヤ木原真牧師

この箇所では、パリサイ人と取税人の二人が出てきます。パリサイ人は、律法を厳格に守っている学者であり宗教エリートでした。

パリサイ人は、立派に、正しくやっている人の代表です。一方、取税人とは、ローマ帝国の手先となり、同国民から税金を上乗せ

して徴収し私腹を肥やしていました。ですので、取税人は、忌み嫌われる存在でしたし、自身も負い目を持ちながら生活をしてい

ました。この取税人は、罪人の代表、どうしようもない人の代表です。この聖書箇所は、この全く逆の二人をとりあげた話しです。

 

9節 パリサイ人が 、「自分を義人だと自認し」と言っています。ですので私は、正しい、ちゃんとやっていると思い、他人を見下し、

あの人たちは、間違っている、正しくない、と思っている人たちへの神様からのメッセージなのです。

クリスチャンである私たちは、多くの場合、自分は本当にだめだ、罪人だと気づき、神様こんな私を哀れんで下さいと言い、救われ

ます。そして、クリスチャン生活をすごす中で、きよめられていき、神の言葉を守る様になり、多くの祝福を受ける様になります。

そうしている内に、自分はこんなにきちんとやっているのに他の人はやっていない。しらない間に、自分は正しいと思い始める

のです。これは、落とし穴なのです。この落とし穴に入りやすいわかりやすい例があります。それは、夫婦です。

夫は、自分の正しさにたち、妻が悪い。妻は自分の正しさにたち、夫が悪いと思います。知らない間に、思ってしまうのです。

みなさんは、どうでしょうか。知らない間に思っていることはないでしょうか。

 

10節 パリサイ人の祈りは、他の罪人、特にこの取税人みたいな罪人でないことを感謝します、と祈っています。この祈りの一番の

マイナスは  、「神よ」と言っていますが、他の人がどうであるかを言い、目も心も神に向いていないのです。人々を見れば、あなた

より、悪い人はいっぱいます。しかし、良い人もいっぱいいるのです。それは、貧しさ、富もですし、できるできないでも同じことが、

言えます。これは、祈りとは言いません。私たちは、主に目も心も向いていないと失敗してしまうのです。

 

取税人は、遠く離れて立ち、目を上げることも出来ず胸を叩き、祈ります  。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください 。」

この取税人は、目も上げることが出来ませんでしたが、神に向いていたのです。そして、イエス様は言われます。この胸を叩いて、

祈った取税人が義と認められたと。義とは、正しいということです。全く罪を犯さなかったイエス・キリストと同じ義と認められた

のです。イエス様と同じなので、どんな祈りも答えられます。その義と認められて取税人は家に帰ったのです。パリサイ人では、

なかったのです。このパリサイ人でも、もし他の人を見ること無く、神様の前に出ていれば、 どんなに正しかったとしても、

「私は、罪人でどうしようもない者」であることがわかった。逆もそうでうす。取税人も神の前に出ること無く、取税人の仲間たちに

目を向けていれば、 「私は、お前よりもましだ。 」となっていたでしょう。かぎは、神様の前に出ることにあるのです。

低いと祝福が豊かに流れてき、祈りが答えられます。神様はあなたの祈りに答えたいと思っていらっしゃいます。しかし、私は、

正しい、あの人はどうしようもないですが、私はこんなにちゃんとやっています、というパリサイ人のような祈りは答えられません。

人を見ると、言いたくなってしまうことがいっぱいあるでしょう。否定はしません。そんな時にどうすれば良いか。それは、神様を見上

げるのです。あなたのために一度も罪を犯さなかった、あなたを愛して、苦しみや悲しみ、全てのマイナスを引き受けられて、

十字架であなたの身代わりとなって死んで下さった、あのイエス様を見上げるとき、どんなに、人の前に自分は正しいと思っていた

人も、必ず言うでしょう  。「神様すみません。こんな私ですが、 祈りに答えて下さい 。」

主の前に出る時、主の十字架の前に出る時、そこからでる感謝と祈りは、神様の手を動かすのです。

そして、神様は答えて下さる方であることを忘れないで下さい。

 

 

 

                                                              (文責 モーセ出西 光) 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2008年9月7日 主日第二礼拝メッセージより