『主よ。その通りです』

                    マタイの福音書 152128節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
 イエス様が信仰をほめられた人物が二人います。一人はローマの百人隊長。もう一人がこのカナン人の女でした。

・カナン人の女
 カナンという場所は不法と偶像崇拝に満ちた場所でした。そんな罪と汚れに満ちていた場所に住んでいたのが、このカナン人の女です。彼女には娘がいましたが、その娘はひどく悪霊につかれていました。単なる病気ではなく、明らかに悪霊とわかるほどの、ひどい状況でした。その娘のために彼女はイエス様のもとに出てきたのです。「私をあわれんでください。」とカナン人の女は叫びました。彼女にとって娘の問題は、すでに自分の問題であったのです。愛する娘が苦しんでいる事も、その事で自分自身が痛み、苦しんでいるという事も、彼女には自分の問題だったのです。

        答えてくださらないイエス様
 そんなカナン人の女が、「娘を治してほしい。」と、イエス様のもとに出て来たにも関わらず、イエス様は彼女に一言もお答えになられませんでした。悪く言えば「無視」されたのです。さらには、周りにいた弟子達もうるさいからと、「帰してやってください。」と言いました。いやしを求めてきた彼女には、これはとてもショックな事だったでしょう。
 彼女は本当に願っていたにも関わらず、イエス様は聞いて下さいませんでした。そして、イエス様は答えてこう言われました。「わたしは、イスラエルの滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と。「カナン人である、あなたはわたしには関係ない。」と言われたのです。語られたこの言葉は事実でした。カナン人は罪と汚れに満ちた民族でした。そんな民族の彼女は、イエス様にとっては関係ないのです。
 もし、こういう状況が私達に許された時、みなさんはどう思われるでしょうか。ある人は腹を立てて、怒り出すでしょうし、ある人はあきらめて帰るでしょう。 しかし、このカナン人の女は違いました。イエス様の前にひれ伏して、「主よ。私を助けてください。」と言ったのです。彼女は「何としても、娘を治してほしい。」と引き下がりませんでした。
 彼女は信じていたのです。イエス様ならば必ず治してくれると。だから彼女は引き下がりませんでした。

        「主よ。その通りです。」
 ここまで言う彼女を見て、「そこまで求めるなら。」と、イエス様なら言って下さると思いますが、この時は「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」と答えられました。この「子犬」とは決して良い意味ではありません。「スパイ」を指す時に使う様な、悪い意味です。つまり、「選びの民であるユダヤ人のパンを取り上げて、カナン人のお前にやるわけにはいかない。」という意味なのです。 
 しかし、彼女はこう言いました。「主よ。その通りです。」と。彼女は認めたのです。自分はうけるにふさわしくないものではないと、認めて受け取ったのです。しかし、だからダメだとは思いませんでした。「ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言いました。それでも、例えパンくずであったとしても、イエス様ならいやして下さると、固く信じたのです。自分はふさわしくないと認めた上で、イエス様に求めたのです。 そのとき、イエス様は彼女に答えて言われました。「あぁ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」彼女の娘は、その時完全にいやされたのです。彼女の娘にいやしが与えられた鍵は、どこにあったのでしょう。彼女はイエス様の前に出たのです。

 日本人は非常に頭の良い民族です。他国の人々と比較しても日本人はとても優れています。しかし、神の前に出たならば、こんなに高い民族はいません。偶像崇拝と罪に満ちた民族なのです。神の祝福を受けるなど到底ふさわしくありません。あなたはこの言葉を聞いて、「主よ。その通りです。」と言えるでしょうか。認めた上で、「だけど、神はあわれんでくださる。」と、信じているでしょうか。もし、信じられないならば、それはあなたが、神ではなく、人や自分を拠り所としているという事です。例えどんなに自分は正しいと思っていたとしても、神様の祝福を受けるにふさわしいものは一人もいません。しかし、鍵は「それでも、イエス様が祝福して下さる。」と信じる事です。
 そう信じているクリスチャンには、決して絶望は無いのです。
                                         (文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター神のしもべ長崎教会
2008
914日 主日第2礼拝メッセージより