『教会』

               エペソ人への手紙 1章22-23節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

・イエス・キリストが満ちておられるところ

 牧師を通して祝福される時、牧師が教会のかしらだと感じてしまう人々が多くいます。しかし、本来どの教会であっても、教会のかしらは、イエス・キリストです。そして、イエス様は、教会に満ちておられます。

なぜ、教会に行く事が良いのかというと、御体である教会に、イエス様が満ちておられるからです。教会に行っても、行かなくても良いと思われる方がいますが、それは、根本的な間違いです。もちろん、家であっても、どこであってもイエス様は私たちと共におられます。しかし、イエス様が満ちておられる教会で神様の臨在にふれる事は、祝福の大きなポイントなのです。

 イエス様が弟子達に大宣教命令を与えられた時、それは、グループに与えられたものでした。また、ペンテコステの時に聖霊の満たしがあらわれた時も、そこに集まっていた、すべての者に与えられたのです。

旧約時代では、約束や言葉は、王や祭司、預言者などの選ばれた特別な人。つまり、個人に与えられていました。しかし、新約時代に与えられるのは、個人ではありません。教会です。新約聖書にある多くの書簡は、教会にあてられて書かれたものです。神様は教会を通して私たちに語り、教えておられるのです。私たちが信仰を用いる方法で最も簡単な方法があります。それは、私たちが教会にしっかりつながる事です。 

 

・教会が信仰を用いる

 私たちが信じる時、誰を信じるのでしょう。もちろん神様を信じるのです。それは、神の言葉を信じるという事です。私たちが信仰を用いる具体的な方法として、「感謝をする」「悔い改める」「祈り求める」「聞いて従う」「告白する」「教会につながる」という方法があります。しかし、信仰を用いると言った場合、多くの人が個人として考えます。それは確かに間違いではありません。神様は一人一人の個人に祝福を用意しておられるからです。しかし、神様は多くの祝福を教会を通して与えられます。つまり、教会が信仰を用いる事によって、神様の祝福と恵みを私たちは受ける事が出来るのです。教会に神様の言葉が与えられていても、神様が用意されている祝福を、受けれなくなってしまう人が多くいます。その人たちには特徴があります。彼らは教会を離れてしまったのです。教会に与えられた約束は、教会を通して成就します。

 個人が信仰を用いると同時に、教会が信仰を用いる時、多くの祝福を私たちは見ます。病においても、個人で祈ると共に、教会が祈るのです。その時、神様のいやしの働きはより強力にあらわれるでしょう。使徒の働き12章で、ペテロが牢に投獄された時、彼は御使いによって奇蹟的に助け出されました。ペテロは幻を見ているとさえ思っていました。しかしその時、教会が祈っていたのです。ペテロが彼らのところに帰って来た時、彼らは「そんなはずはない。」と言いました。祈ってはいても、疑ったのです。しかし、それでも教会が祈っていたことで、神様は働かれたのです。

 教会が信仰を用いる事は、祝福を受ける大きなポイントです。そして、その教会につながっている私たちは、ただ教会にいるだけでその恵みを受ける事が出来るのです。

 

 神様の祝福と働きの土台は教会にあります。個人で信仰を用いる事で私たちは多くの祝福を受ける事が出来ます。それと共に、教会として信仰を用いる事で、私たちはさらに多くの祝福を受ける事が出来るのです。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2009年1月11日 主日第2礼拝メッセージより