『神が与えるそれぞれの使命』
使徒の働き7章54〜60節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
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ステパノの説教
この時、ステパノが語った説教の内容は、集まった人々を、怒らせても当然と言えるような、非常に激しいものでした。イスラエルの歴史を語り、「心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたが、預言者を殺し、聖霊に逆らっている。」と、彼らに非常に激しい言葉で語っているのです。その結果、それを聞いた人々は、はらわたが煮え返るほどの怒りに燃えて、彼を石打にして殺してしまいました。ステパノは、なぜこのような説教を語ったのでしょうか。殺されると分かっているような説教を。それは、この説教を語る事が彼の使命だったからです。彼は、聖霊に満たされていました。聖霊がこの説教を語るように導かれたのです。
同じように、人々に激しい説教した者がいます。使徒であるペテロです。ペンテコステの時に聖霊に満たされた彼は、「あなたがたが十字架に付けたのです。」と同じように厳しい説教をしました。しかし、その説教を聞いた人々は悔い改め、更に3000人もの人々が改心し、救われたのです。
どちらも、聖霊によって導かれた説教でした。しかし、その結果はまったく違うものでした。なぜこのような事が起きたのでしょうか。それは、人にはそれぞれ使命と召しがあるからです。激しい説教をし、殉教する事がステパノの使命でした。一方ペテロも何度も殉教を覚悟しましたが、その度ごとに神様は彼を救い出されました。彼にも使命があったからです。ステパノはこの結果を悲しんでいません。使命を果たした彼は、天国で冠を受け、喜んでいるでしょう。
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従ったことにおける報い
神様に従った時に、ペテロはすぐにその実を見ましたが、ステパノはすぐには見ませんでした。それどころか、人の目には無駄死にとさえ見えました。しかし、このステパノの殉教によって、神様は大きな報いを与えられました。この時、ステパノを石打にした者達の中にサウロという男がいました。彼は熱心なユダヤ教徒であり、ステパノを殺す事に賛成していました。しかし、その彼を神様は召し出されました。後に彼の名はパウロと呼ばれ、異邦人伝道の器として神様は大きく用いられたのです。彼が見た、ステパノが殉教していく姿は、確かにパウロの目に焼き付いており、彼が神様に聞き従っていく上で大きな力となりました。パウロの生涯には彼を殺そうとする人々が大勢いました。理解できない事もたくさん起こりました。しかし、彼は赦し続けて宣教し続けていくのです。なぜ、このような事が出来たのでしょう。彼の目に、使命を果たして殉教していった、ステパノの姿が焼き付いていたからです。命を捨ててまで神様に従い、宣教する事を学んだのです。それは、ステパノが従ったことにおける、神様の報いです。
私たちの人生の中でも、すぐに実を見て、祝福を受ける場合もあれば、すぐには見る事が出来ずに、まるで報いが無い様に見える時があるのです。しかし、本当に神様に聞き従った事においては、神様は必ず報いを与え、祝福して下さるのです。
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天に目を向ける
ステパノは殉教する時、天を見つめていました。人々が彼に殺到してきた時も、彼は、天に目を向け、イエス様を見ていました。そして、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と言って殉教していったのです。彼は、イエス様が祈った祈りと同じ祈りを捧げながら、殉教していったのです。なぜこれほどの殉教をする事が出来たのでしょう。それは、彼が見ていたのは、地上ではなく、イエス様を見つめ、天国に目を向けていたのです。
ステパノの殉教は、その時には、すぐに実を見ませんでした。しかし、彼が神様に聞き従ったことにおける報いと、神様の計画は人々の思いをはるかに越えるものでした。私達も、それぞれに与えられた神様の使命を恵みによって果たし、神様が用意されている祝福を共に見て行きましょう。 (文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2009年2月8日 主日第2礼拝メッセージより