『神様が選ばれた』
ヨハネの福音書 15章16〜17節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
私たちには、自分で選べる事と、選べない事があります。例えば、赤ん坊は生まれる時に、親を選ぶ事は出来ません。しかし、自分では選択出来ないその選びを、受け取って喜んでいる人は、多くの神様の祝福を受けます。また、就職、進学、結婚と言った、自分で選択した事も、その背後には神様の手があり、神様が選ばれたと信じている人は、神様の祝福を受けるのです。この祝福はとても大きいものです。
しかし今回は、この箇所から、また違った視点から見ていきたいと思います。
・選ばれたのは神様
この箇所をよくよく見てみますと、この言葉は弟子に向かって語っておられるのが分かります。弟子たちを選ばれたのは、イエス様ご自身でした。弟子たちは、それぞれ代価を支払って確かにイエス様について行きました。ペテロは仕事を捨て、ヨハネは家族をおいて、イエス様に従ったからです。しかし、イエス様は彼らに「あなたがたではなく、わたしがあなたがたを選んだ。」と言われたのです。それは、彼らが今まで従った事実を否定するのではなく、神様が選んだので、その選んだ責任を、神様ご自身がとってくださると言われているのです。
イエス様が十字架につけられた時、弟子たちは逃げました。全員が裏切ったのです。もし、彼らの方がイエス様を選んでいたのならば、これは明らかに敗北であり、失敗です。しかし、神様が彼らを選ばれたので、その選びは変わりませんでした。その40日後、彼らは聖霊のバプテスマを受け、ペテロを通して神様は3000人もの人々を救われたのです。神様が選んだ責任は、神様が取られるのです。
神様が選んで下さったと言うことを信じている人は、神様の祝福をたくさん受けることが出来るのです。私たちが救われ、今、この地上に生かされている事は神様の選びなのです。ですから、選ばれた神様ご自身が責任を取られるのです。現在、置かれている職場、学校、地域、家族、あるいは教会に、神様ご自身が、私たちを選んで、置いて下さっていると、信じている事は、非常に大きなポイントなのです。
・実を結ぶため
今、私たちが置かれている職場、学校、家庭。そこに神様が私たちを選んで置いておられる事を信じるとき、神様は実を付けさせて下さるのです。しかし、だからと言って『実を結ばなければならない。』という事ではありません。実を結ぶようにと、頑張る必要などありません。鍵は『信じる』という事です。なぜなら、、実を付ける事は、神様の約束なのです。どんなに失敗しても、「こんなにどうしようもない私でも、神様が選んで置いて下さった。」と信じていれば良いのです。
では、信じるとは、具体的には何でしょう。それは、次の御言葉にあります。「あなたがたがわたしの名によって、父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(16節)「求める」と書かれています。父に求めるとは、「祈る」という事です。幼い子どもが親に、お菓子やおもちゃを求めるように、人は、期待している相手には求めます。私たちは求めなければいけません。神様に期待して祈るのです。神様に求める事が、信仰なのです。しかし、ポイントがあります。「あなたがたが。」と書かれているのです。弟子達はペンテコステで聖霊に満たされる直前、集まって祈っていました。逃げてしまった自分に絶望したのです。しかし彼らは、最も弱くされた時に、ようやく祈る事が出来ました。神様の働きが表される前には、私たちは弱くされるのです。
・愛し合うこと
イエス様は弟子たちに、愛し合うことを教えられました。この説教の前に、イエス様は弟子たちの足を洗われました。それは、彼らに対するイエス様の愛でした。イエス様が教えられたのは、相手より低くなる事、弱いところをケアーし、補い合う事です。愛する事は、簡単ではありません。赦し合う必要があるからです。しかし、聖霊の助けをいただいて、赦し合い、愛しあう時、私たちは実を結ぶ事が出来るのです。
神様が私たちを選んで下さいました。だから実を結ぶために頑張る必要はありません。それは、神様の約束だからです。その約束を信じ、互いに愛しあう時、豊かな実を結ぶ事が出来るのです。 (文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2009年3月1日 主日第2礼拝メッセージより