『イエス・キリストに解決がある』
聖書箇所:U列王記5章8〜14節 メッセンジャー:イザヤ木原真牧師
今日は、有名なナアマン将軍の箇所から見ていきたいと思います。彼は、アラムの将軍で王には重んじられ、尊敬
されていました。しかし、彼は自分の財産、人望、何をもってしてもどうしすることも出来ない問題を持っていました。 それが、ツァラアト(らい病)です。私たちの人生には、どんなにがんばったとしても、どうにもならない問題が許され
ることがあります。この場合は、病気でしたが、必ずしも病気だけではありません。人間関係、仕事、学業などであ
ることもあります。これは、普通で言えばマイナスです。しかし、このような問題が許される事は、祝福なのです。
もし、あなたの周りにどうする事も出来ない問題の中にいる人がいたら言って下さい。『大丈夫ですよ』と。
2節から3節にイスラエルから連れてこられた若い娘の言葉が、サマリヤの預言者のところに行けば、病気は直ると
言っています。ナアマン将軍のほどの地位と名誉がある人ならば、普通であれば若い、しかも、奴隷の言葉などに
耳をかたむけません。なぜ、聞いたのか。それは、彼がらい病という問題を持っていたからです。もし、人の手に
負えない問題が許されていなかったら聞かなかったでしょう。マイナスではないのです。むしろ、それは、素晴らしい
神様からの救いへの、勝利への、神様の栄光へのプレゼントなのです。
耳をかたむけたナアマンは、アラムの王に頼み、イスラエルに向かい、イスラエルの王に向かいます。王は、「らい
病を直して下さい」と書かれた手紙を読んだ時、服を引き裂きいいがかりをつけに来たと言います。王は、神様に
油注がれた王でしたが祭司でなければ、預言者でもないのです。旧約聖書では、王と祭司と預言者がいます。それ
ぞれ神の働きは違いました。役割があったのです。新約時代は、万人祭司で、すべての恵みを受けているのです
が、それと同時に、新約時代は教会なので、教会において役割があるのです。牧師の役割があるようにそれぞれ
の役割が与えられているのです。そのことを覚えて下さい。
神の人エリシャは、王に使いを送り「わたしの所に来ればイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言わせ
ました。エリシャは、神様がなおすことを信じていたのです。みなさんは、イエス・キリストには、なおすことが出来る
ことを信じていますか。イエス・キリストには、解決できます。イエス・キリストは勝利をされます。イエス・キリストは、
なおして下さるのです。私たちには、限界があり出来ないことはいくらでもあります。しかし、イエス・キリストには出
来るのです。そう信じていますか。今日、私が言っているのは、「だから、がんばってやりましょう」ということではなく、
信じているのかを聞いています。エリシャは、信じていたので、神様から与えられた言葉を、語ります。彼が特別な
ことをしたわけではありません。同じ様に、私たちも問題にぶつかっている人たちに、イエス・キリストに解決がある
ことを伝えることが出来るのです。
ナアマンは、エリシャの所へ向かいます。彼は、期待したことでしょう。そして、彼なりのプラン(11節)を持っていま
した。しかし、エリシャ本人ではなく、使いが言うのです。「ヨルダン川で7回、身を洗うように」と。彼は、それを聞き、
怒ります。怒って去ったのです。彼のプライドがそれを許さなかったのです。くだかれないと従えないのです。
しかし、彼のしもべたちがなだめた時、彼は心を切り替えヨルダン川に向かいます。私たちは、主の言葉に応答して
いく必要があります。なぜなら神の言葉に力があるからです。彼は、言葉通り、7回身を浸しました。全うしたのです。
その時、幼子の体のようになったのです。年相応ではありません。幼子のようになったのです。
神の言葉に従い、神様が業をなす時、逆転が起こるのです。最もマイナスの所が、最も祝福となる。ただの回復
ではありません。これが十字架の力、復活の力なのです。クリスチャンには、失望など無いのです。
(文責 モーセ出西
光)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2009年4月26日 主日第二礼拝メッセージより