『信仰を見られる主』

                  マルコの福音書2章112節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 カペナウムとは、なぐさめの村と訳される村で、イエス様の宣教の拠点でした。イエス様がそこカペナウムにある家に、おられる事が知れ渡ったので、多くの人が集まりました。業が現れると、人々は集まるのです。その集まった人にイエス様は御言葉を教えておられました。教会は神の言葉が語られる場所です。神の言葉は人をつくり変えます。人をいやし、悪魔の鎖を打ち砕きます。神の言葉に力があるからです。

するとそこに、ひとりの中風の人が4人の人に担がれて、連れてこられました。しかし、人々がイエス様の話を聞こうと、戸口のところまですき間もなく集まっていたので、イエス様に近づく事が出来ませんでした。そこで彼らは、なんとか彼をイエス様のもとに連れて行き、いやしていただこうと、イエス様がおられる家の屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままつり降ろしたのです。当時の家は、現在の家とは異なり、屋根をはがしたりするのは、それほど難しい事ではありません。しかし、それでもこれは大変なことです。なぜ、それほどまでして、彼らはイエス様のもとに行こうとしたのでしょう。それは、その中風の人に治ってほしかったからです。そして、「イエス様ならいやしてくださる。」と信じていたからです。

みなさんはどうでしょうか。「あの人の病がいやされてほしい。」「なんとか救ってほしい。」という人が周りにおられるでしょうか。また、イエス様のところにいけば、いやしてもらえると信じておられるでしょうか。いるならば、私たちはその人をイエス様のもとに連れて来なければいけません。もちろん、イエス様はどこにでもいてくださいます。しかし、いつでも、必ずイエス様がおられるところがあります。それは、教会です。教会にキリストが満ちておられるからです。 

私たち日本人は、人々をイエス様のところに連れて行こうとする時でさえ、人間的な計算をしてしまいます。しかし、それは必要ではありません。イエス様に期待するのです。単純に、イエス様が成される事を信じましょう。人の力は関係ありません。神様は信仰を通して働かれるからです。

この家の屋根は壊しても、すぐに修復は可能でした。しかし、もし修復が難しかったとしても、彼らはきっとその屋根をはがしたでしょう。これを「愛」と言うのです。

4人の人が、彼をつり降ろした時、イエス様はその姿を見て、「信仰」と言われました。信仰なんて目に見えません。見えたのは、中風の人と、4人の人です。彼らがイエス様のもとに来た事が、信仰なのです。

イエス様のもとに降ろされた中風の人に、イエス様は初めにこう言われました。「あなたの罪は赦されました。」恐らく彼の病は、罪のゆえに許されたのでしょう。イエス様は彼の抱える問題の根本の部分を、初めに解決されたのです。しかし、その場にいた律法学者が心の中で理屈を言いました。「神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう。」言っている事はまったく正しい事です。神様以外に、罪を赦す権威はありせん。しかし彼には、決定的な間違いがありました。イエス様は神様なので、赦す事がおできになるのです。

心の中で理屈を言う人が多くいます。そして、神様の前でさえ心を隠すクリスチャンが多いのです。しかし、神様の前では、それは虚しいものです。なぜなら神様は心を見られるからです。

イエス様は中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、多くの人が見ている前を出て行きました。いやされたのです。彼らの信仰を見て、イエス様はいやしてくださったのです。

クリスチャンが祝福を受けるカギがあります。それは、他の人の祝福を求めることです。その時、自分が抱えている問題までも嘘のように、解決され、祝福されるのを見るでしょう。これは、神様の約束なのです。

人々をイエス様のところに連れて行きましょう。それは、私たちすべてのクリスチャンがなすべき事です。

その時、私たちも多くの祝福を見ていくでしょう。                 (文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしも長崎教会
2009
510日 第2礼拝メッセージより