『イエス・キリストの十字架』

 

             第1コリント人への手紙 215節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 

コリント人への手紙はパウロが書いた手紙です。彼はこう書いています。「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。」(1節)

パウロは博学で知識もあり、宗教的な立場も、家柄もよい人でした。しかし、その彼が宣教する時には、すぐれた知恵や力を使うことはしないと言っているのです。また別のところで彼は、イエス・キリストを知った素晴らしさのゆえに、他のすべての事を「ちりあくた」「糞土のように思う」と言っています。それは、「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(2節)とあるように、彼はイエス・キリスト以外には、何も知らないと心に決めたからです。日本人は、頭のいい民族だと思います。しかし、時にその事が、神の働きを妨害している場合があるのです。イエス・キリストの素晴らしさを知ったならば、他のものはむなしいものです。

イエス・キリストの事を人々に紹介するとき、「いやし主」「慰め主」「導いてくださる方」など様々な紹介の仕方があると思いますが、彼は、イエス・キリストを紹介するとき、「十字架につけられた方」と言っています。パウロはこのイエス・キリストの十字架が救いを与え、いのちを与え、人生を変え、祝福を与える事を知っていたのです。だからこそ彼は、イエス・キリストを紹介するとき、「十字架につけられた方」と言ったのです。

私たちはこの十字架につけられた方を人々に伝えるのです。しかし、イエス様の事を、この日本で人々に語ろうとする時、弱さや恐れを感じる事があります。パウロもそうでした。彼は続けてこう言っています。「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」(3節)博学であり、有能であった彼にさえ、弱さと恐れがあったのです。しかし彼は、その弱さや恐れを感じながらも、十字架を人々に語って行きました。

「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。」(4節)とあるように、宣教とは、賢く、上手くするのではありません。聖霊と御力の現れによって、なされていくものなのです。パウロは続けてこう書いています。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(5節)人々の信仰を、本当に立て上げるのは、聖霊と御力なのです。私たち人間の知識や能力が人々を救うのではありません。

 

イエス・キリストの十字架によって人々は救われます。イエス・キリストの十字架によって病はいやされ、問題は解決されていくのです。私たちはこの十字架を人々に語り、伝えていかなければならないのです。


 (文責 松本俊也)

 

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2009年7月12日 主日第2礼拝メッセージより