『信仰を選ぶ』
聖書箇所 第1テサロニケ人への手紙5章16〜18節メッセンジャー イザヤ木原真牧師
私たちは天国人です。しかし、私たち日本人のクリスチャンは「日本人クリスチャン」という意識が非常に強いように思われます。主の十字架では年末から年始にかけてイスラエルチームが遣われます。イスラエルは特別な場所です。天国人である私たちが、天国のひな型であるイスラエルに行くのは、当然とも言えることです。しかし現実的に目で見える所を見ると、行くのは難しいと思われるかも知れませんし、不可能と思われるでしょう。しかし、そこで神様に祈るのです。私たちには不可能と思われる状況が許されます。その時、祈らない人はそこで終わりですが、そこで祈る人は神様を体験します。神様の素晴らしさをより見ていくのです。
・「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」Tテサロニケ5章16〜18節
・ベースは祈り
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」という3つのポイントが書かれています。この3つのポイントのベースには「祈り」があります。祈りはクリスチャン生活の中で重要なカギなのです。
ここに「絶えず祈りなさい。」と書かれています。「絶えず」とは言い換えれば「いつも」という事です。いつも神様に祈るのは難しいと思われるでしょうが、絶えず祈るために2つポイントがあります。祈りとは神様との交わりです。ですからポイントの1つは、神様に絶えず心を向けることです。そして、もう1つは異言を用いて祈ることです。実はこの異言の祈りは、絶えず神様に祈るために非常に大きな役割を持ちます。通勤中でも、掃除しながらでも、異言で祈る事は出来ます。異言が出てこないと言われる方もいますが、神様に求めて異言を語っていきましょう。赤ん坊が言葉を覚えていくように、異言は用いていく時に成長し語れるようになっていくのです。異言を用いて神様に絶えず祈りましょう。
・感謝と喜び
いつも喜ぶ事とすべての事を感謝する事。これは表裏一体です。「感謝します。」と言いながらも喜んでいない時、それはお互いが引っ張り合っているような状態であり、本当の所では神様に感謝していません。もちろん私たちが生活していく上で、すべての事が喜べるような状況にある訳ではありません。感情的には、思わず悲しんだり、いらだったりするような出来事は少なくないからです。職場でも、学校でも、地域にも私たちの感情が反応する事が多くあります。しかし、感情が反応し、悲しみ、いらだったからと言って、そこで落ち込むことはありません。なぜなら私たちは、感情に敏感に反応するように造られているからです。しかし、感情に反応して、悲しんだり、いらだったりしてしまったその後に、信仰に切り替えて、神様にすべての事を感謝し、喜ぶ事は、私たちの選びです。その時には私たちの感情はついて来ないかもしれません。しかしその時に、信仰の意思を持ってこれを選ぶのです。
人は悲しんだり、いらだったりします。しかし、そこにいつまでも止まっていてはいけません。感情的になっていた私たちの思索と感情を信仰に切り替え、神様に感謝する事を選び、喜ぶことを選ぶのです。その時に、神様が働かれるのを私たちは見るのです。なぜなら神様はそう約束されたからです。
この様な説教を1000回聞いても、10000回証しを聞いても、それだけでは何も変わりません。信仰に立って喜ぶこと、絶えず祈ること、すべての事を神様に感謝することを「選ぶ時」私たちは神様を見るのです。信仰を用いる人に、神様は働いてくださいます。信仰を選びましょう。神様は多くの祝福を用意しておられます。 (文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2009年10月11日 主日第2礼拝メッセージより