『強いられた十字架』               聖書箇所 : マタイの福音書27章32節            メッセンジャー:イザヤ木原真牧師

 私たちの人生には選びようが無い十字架があります。その強いられた十字架を神様の恵みによって受け止めた2人について学んでいきます。

1人目はフェリペです。日本で最初に殉教したのがフェリペです。彼は26聖人のうちの1人です。フェリペは、メキシコで放蕩の限りを尽くしました。ある時、フェリペは神様に悔い改め、献身しメキシコのフランシスコ修道会に入りました。そこで、献身生活を送っていましたが、挫折し修道会を辞めました。フェリペの母は息子のことを心配し、フィリピンに行って仕事をするように勧めました。フェリペはフィリピンに行き成功しました。しかし、虚しさを覚え、神様に再献身しようと決意しました。そうして、フィリピンのフランシスコ修道会に入る申請をしました。フィリピンのフランシスコ修道会の院長はフェリペがかつてメキシコで挫折したことを知っていたので、断りました。ですが、院長が神様に祈ると、神様が導かれていることがわかったので、フェリペを修道会に受け入れました。フェリペが修道会に入って2年後に、院長の後継者としてフェリペが指名されました(カトリックは神父になるまでに10数年学ばないといけないのでこれは奇跡です)。フェリペが司祭になるために叙階(カトリックで聖職者を任命する儀式)を受ける必要がありました。叙階はフェリペの故郷であるメキシコでしかできませんでした。フェリペはサンフェリペ号に乗船し、メキシコに向かいました。その航海中、台風に襲われ、サンフェリペ号は高知県土佐沖に漂着しました。その結果、フェリペたちは捕らえられ、京都に連れて行かれました。フェリペは殉教者のリストに加えられました。26聖人の中で自ら殉教することを選んだ人もいますが、フェリペは選ぶことができませんでした。全く来る予定のなかった日本に来て、殉教することになり司祭の叙階を受けることができなくなりました。しかし、フェリペが母に綴った手紙の内容から、強いられた十字架を感謝して受け止めたことがわかります。若干24歳のフェリペは喜びに満ち溢れて、殉教してゆきました。

 2人目はクレネ人シモンです。シモンはユダヤの3大祭りの1つである過越の祭りを見に田舎からやって来ました。その頃、イエス様は群衆からの罵声を浴びながら、ゴルゴダの丘に向かい自らが架かる十字架を背負われていました。イエス様はすでに39度の鞭を受け、体がぼろぼろでした。そのため、イエス様は途中で倒れました。背負っていた十字架が転がり落ちました。ローマ兵はこれ以上、十字架を背負わせるのは無理だと思いました。ちょうどその時、群衆をかきわけてイエス様の様子を見ていたシモンにローマ兵は目を留めました。ローマ兵はシモンに十字架を担がせることを決め、命令しました。当時、ユダヤはローマの支配下にあり、反逆することは死を意味するので、シモンは断ることができませんでした。十字架刑は、極悪犯罪人をつけるための刑でした。十字架を背負うように命令された時点では、イエス様のことを救い主とわからず、イエス様が不当な裁判で犯罪者扱いされていることをシモンは知らなかったので、犯罪人の十字架を背負うことになったとショックを受けたと思います。シモンにとって強いられた十字架でした。

ですが、強いられた十字架があったので、シモンはイエス様の十字架のあがないを見てイエス様が救い主だと明確にわかりました。イエス様の核の使命である十字架のあがないをなす時、一番近くにいたのは、弟子たちやイエス様を慕っていた女性たちではなく、シモンでした。

 シモンだけでなく、シモンの家族も救われました。マルコの福音書15章21節からシモンの息子は「アレキサンデルとルポス」であるとわかります。そして、ローマ人への手紙16章13節に、シモンの息子ルポスのことを「主にあって選ばれた人」といい、シモンの奥さんのことを「私の母」と言っています。パウロがわざわざローマ人への手紙に記すほど、シモンと彼の家族は神様を愛する家族になりました。

 私たちも神様の尽きない恵みを受けて強いられた十字架を喜んで担っていく時、イエス様が私たちに先立って歩んでくださり栄光をあらわしてくださるということをどうぞ覚えていただきたいと思います。

                                       (文責 久保田望)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2010年1月31日 主日第二礼拝メッセージより