MIME-Version: 1.0 Content-Location: file:///C:/A518DA39/100509.htm Content-Transfer-Encoding: quoted-printable Content-Type: text/html; charset="us-ascii"
『からし=
278;の信仰を用いる』=
=
12288; 聖書箇û=
52; マタイの福音書<=
/u>17章20節 メッ=
475;ンジャー イザヤ木=
;原真牧師
=
12288;ここは、悪霊につ{=
63;れ、てんかんにかか=
った子が、イエス様=
2398;もとに連れられてӔ=
5;た場面です。その子&=
#12398;親は、てんかんを=
356;やしてもらおうと、=
;まず、弟子たちのと=
12371;ろに息子を連れてŜ=
92;きました。しかし、=
弟子には彼を治すこ=
2392;が出来ませんでしӖ=
3;。そして、イエス様&=
#12398;もとに子どもを連=
428;てきたのです。イエ=
;ス様は、悪霊を追い=
20986;し、彼をいやされ|=
14;した。そこで弟子た=
ちは、そっとイエス=
7096;に「なぜ、私たちӗ=
5;は悪霊を追い出せな&=
#12363;ったのですか。」=
392;尋ねました。すると=
;、イエス様はこう語=
12425;れたのです。「あなたがた&=
#12398;信仰が薄いからで=
377;。まことに、あなた=
;がたに告げます。も=
12375;、からし種ほどのÌ=
49;仰があったら、この=
山に、『ここからあ=
2381;こに移れ。』と言Ӕ=
0;ば移るのです。どん&=
#12394;ことでも、あなた=
364;たにできないことは=
;ありません。」20節<=
/b>
=
イエ=
2473;様は、弟子達が悪༚=
6;を追い出せなかった&=
#12398;は、「弟子たちの=
449;仰が薄いから。」と=
;言われたのです。「=
34180;い信仰」とは何な{=
98;でしょうか。それは=
、目に見える現状を=
5211;て、心配や不安なӗ=
3;を土台にし、あたか&=
#12418;、神様がいないか=
398;ようにしてしまうこ=
;とです。彼らはその=
12300;薄い信仰」に立っ{=
90;いました。だから、=
彼らを通して神様の=
4481;業が現されなかっӖ=
3;のです。同じように&=
#12289;私たちも「薄い信=
208;」では神様の御業を=
;見る事が出来ません=
12290;しかし、その彼ら|=
18;ペンテコステ以降、=
聖霊に満たされた後=
2300;薄い信仰」は「かӚ=
5;し種の信仰」に変わ&=
#12426;ました。そして多=
367;の神様の御業が、彼=
;らを通して現れて行=
12387;たのです。
「薄い」の反対は「=
;厚い」です。しかし=
12289;イエス様は「厚いÌ=
49;仰」とは、言われま=
せんでした。からし=
1278;とは、非常に小さӗ=
4;もので、最も小さな&=
#31278;です。つまり、そ=
398;「からし種」ほどの=
;小さな信仰を用いれ=
12400;、山は動き、悪霊|=
18;出て行くと言われた=
のです。では、「か=
2425;し種の信仰」とは߮=
9;なのでしょうか。イ&=
#12456;ス様は彼らに「こ=
398;山に。『ここからあ=
;そこに移れ。』と言=
12360;ば」と言っておら|=
28;ます。つまり、言う=
ことが1つのポイント=
12391;す。さらに、マル|=
67;11章23節には、「疑わ=
378;」と書かれています=
;。つまり、疑わずに=
20449;じることです。し{=
63;し、私たちは疑って=
しまいます。聖書を=
5211;てみても、アブラӡ=
5;ムでさえも何度も疑&=
#12387;ています。しかし=
289;アブラハムの事をパ=
;ウロは『彼は疑うこ=
12392;がなかった。』とć=
60;いています。つまり=
、疑ったとしても、=
0097;いに立つのではなӔ=
7;、信仰に立つという&=
#20107;がポイントなので=
377;。信仰に立つとは、=
;マルコ11章24節に「祈Ӗ=
7;て求めるものは何で&=
#12418;、すでに受けたと=
449;じなさい。」とある=
;ように、受けたと信=
12376;ることです。「受けた{=
92;信じる信仰」それ=
364;、「からし種の信仰=
;」です。
<=
span
style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa=
mily:
"MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>そし=
2390;、この「受けたと=
9;じる信仰」を用いる&=
#12398;には、次の3つのポ=
2452;ントがあります。
①こと=
2400;を受ける
②聞き=
4467;う
③その=
2371;とばを告白する
<=
span
style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa=
mily:
"MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>神様=
2399;私たちに語ってくӖ=
4;さいます。その語り&=
#12363;けの土台は聖書で=
377;。問題に関して、特=
;別に語りかけを受け=
12427;場合もありますがz=
89;特別に語られていて=
はなくても、神様が=
2356;つも語っておられӚ=
7;ことばがあります。&=
#20363;えば、感謝です。=
300;神がすべてのことを=
;働かせて益としてく=
12384;さることを、私た{=
85;は知っています。」=
(ローマ8章28節)と語っӗ=
0;おられるので、私た&=
#12385;は、そのことばを=
449;じて感謝するのです=
;。しかし、この感謝=
12395;もポイントがあり|=
14;す。ただ問題が起き=
たときに「感謝しま=
2377;。」と言うだけでӗ=
4;く、信仰に立ち、「&=
#12371;の問題も神様が益=
392;してくださる。」と=
;信じ、すでに受けた=
12392;信じて、感謝する{=
98;です。
<=
span
style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa=
mily:
"MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>
<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>薄い= 0449;仰は神様の御業をශ= 1;ません。しかし、ど&= #12435;なに弱い者でも、= 363;らし種の信仰を用い= ;る者は、神様の奇蹟= 12398;御業を何度も何度|= 18;、見る事が出来るの= です。私たちに与え= 2425;れた、からし種の= 9;仰を用いましょう。<= o:p>
その時、神様&=
#12398;御業が現されてい=
367;のです。
<=
span
style=3D'font-size:10.0pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-family:"MS =
PGothic";
mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>(文責 松=
;本俊也)
<=
span
style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa=
mily:
"MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>主の=
1313;字架クリスチャンӟ=
5;ンター 神のしもべ&=
#38263;教会
<=
span
style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa=
mily:
"MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>2010年5੍=
6;9日 主日第2礼拝メッ=
;セージより