MIME-Version: 1.0 Content-Location: file:///C:/A518DA39/100509.htm Content-Transfer-Encoding: quoted-printable Content-Type: text/html; charset="us-ascii" 『からし種の信仰 = 434;用いる』

『からし= 278;の信仰を用いる』=

        &#= 12288;     聖書箇û= 52; マタイの福音書<= /u>1720節 メッ = 475;ンジャー イザヤ木= ;原真牧師

&#= 12288;ここは、悪霊につ{= 63;れ、てんかんにかか= った子が、イエス様= 2398;もとに連れられてӔ= 5;た場面です。その子&= #12398;親は、てんかんを = 356;やしてもらおうと、= ;まず、弟子たちのと&#= 12371;ろに息子を連れてŜ= 92;きました。しかし、= 弟子には彼を治すこ= 2392;が出来ませんでしӖ= 3;。そして、イエス様&= #12398;もとに子どもを連 = 428;てきたのです。イエ= ;ス様は、悪霊を追い&#= 20986;し、彼をいやされ|= 14;した。そこで弟子た= ちは、そっとイエス= 7096;に「なぜ、私たちӗ= 5;は悪霊を追い出せな&= #12363;ったのですか。」 = 392;尋ねました。すると= ;、イエス様はこう語&#= 12425;れたのです。「あなたがた&= #12398;信仰が薄いからで = 377;。まことに、あなた= ;がたに告げます。も&#= 12375;、からし種ほどのÌ= 49;仰があったら、この= 山に、『ここからあ= 2381;こに移れ。』と言Ӕ= 0;ば移るのです。どん&= #12394;ことでも、あなた = 364;たにできないことは= ;ありません。」20節<= /b>

 = イエ= 2473;様は、弟子達が悪༚= 6;を追い出せなかった&= #12398;は、「弟子たちの= 449;仰が薄いから。」と= ;言われたのです。「&#= 34180;い信仰」とは何な{= 98;でしょうか。それは= 、目に見える現状を= 5211;て、心配や不安なӗ= 3;を土台にし、あたか&= #12418;、神様がいないか = 398;ようにしてしまうこ= ;とです。彼らはその&#= 12300;薄い信仰」に立っ{= 90;いました。だから、= 彼らを通して神様の= 4481;業が現されなかっӖ= 3;のです。同じように&= #12289;私たちも「薄い信= 208;」では神様の御業を= ;見る事が出来ません&#= 12290;しかし、その彼ら|= 18;ペンテコステ以降、= 聖霊に満たされた後= 2300;薄い信仰」は「かӚ= 5;し種の信仰」に変わ&= #12426;ました。そして多 = 367;の神様の御業が、彼= ;らを通して現れて行&#= 12387;たのです。

「薄い」の反対は「= ;厚い」です。しかし&#= 12289;イエス様は「厚いÌ= 49;仰」とは、言われま= せんでした。からし= 1278;とは、非常に小さӗ= 4;もので、最も小さな&= #31278;です。つまり、そ = 398;「からし種」ほどの= ;小さな信仰を用いれ&#= 12400;、山は動き、悪霊|= 18;出て行くと言われた= のです。では、「か= 2425;し種の信仰」とは߮= 9;なのでしょうか。イ&= #12456;ス様は彼らに「こ = 398;山に。『ここからあ= ;そこに移れ。』と言&#= 12360;ば」と言っておら|= 28;ます。つまり、言う= ことが1つのポイント&#= 12391;す。さらに、マル|= 67;11章23節には、「疑わ = 378;」と書かれています= ;。つまり、疑わずに&#= 20449;じることです。し{= 63;し、私たちは疑って= しまいます。聖書を= 5211;てみても、アブラӡ= 5;ムでさえも何度も疑&= #12387;ています。しかし = 289;アブラハムの事をパ= ;ウロは『彼は疑うこ&#= 12392;がなかった。』とć= 60;いています。つまり= 、疑ったとしても、= 0097;いに立つのではなӔ= 7;、信仰に立つという&= #20107;がポイントなので = 377;。信仰に立つとは、= ;マルコ11章24節に「祈Ӗ= 7;て求めるものは何で&= #12418;、すでに受けたと= 449;じなさい。」とある= ;ように、受けたと信&#= 12376;ることです。「受けた{= 92;信じる信仰」それ = 364;、「からし種の信仰= ;」です。

<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>そし= 2390;、この「受けたと߼= 9;じる信仰」を用いる&= #12398;には、次の3つのポ= 2452;ントがあります。<= /o:p>

こと= 2400;を受ける

聞き= 4467;う

その= 2371;とばを告白する

<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>神様= 2399;私たちに語ってくӖ= 4;さいます。その語り&= #12363;けの土台は聖書で = 377;。問題に関して、特= ;別に語りかけを受け&#= 12427;場合もありますがz= 89;特別に語られていて= はなくても、神様が= 2356;つも語っておられӚ= 7;ことばがあります。&= #20363;えば、感謝です。 = 300;神がすべてのことを= ;働かせて益としてく&#= 12384;さることを、私た{= 85;は知っています。」= (ローマ8章28節)と語っӗ= 0;おられるので、私た&= #12385;は、そのことばを= 449;じて感謝するのです= ;。しかし、この感謝&#= 12395;もポイントがあり|= 14;す。ただ問題が起き= たときに「感謝しま= 2377;。」と言うだけでӗ= 4;く、信仰に立ち、「&= #12371;の問題も神様が益 = 392;してくださる。」と= ;信じ、すでに受けた&#= 12392;信じて、感謝する{= 98;です。

<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'> 

<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>薄い= 0449;仰は神様の御業をශ= 1;ません。しかし、ど&= #12435;なに弱い者でも、 = 363;らし種の信仰を用い= ;る者は、神様の奇蹟&#= 12398;御業を何度も何度|= 18;、見る事が出来るの= です。私たちに与え= 2425;れた、からし種の߼= 9;仰を用いましょう。<= o:p>

その時、神様&= #12398;御業が現されてい = 367;のです。

<= span style=3D'font-size:10.0pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-family:"MS = PGothic"; mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>(文責 松= ;本俊也)

<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>主の= 1313;字架クリスチャンӟ= 5;ンター 神のしもべ&= #38263;教会

<= span style=3D'mso-bidi-font-size:10.5pt;font-family:"MS Mincho";mso-bidi-font-fa= mily: "MS PGothic";mso-font-kerning:0pt;mso-ansi-language:JA'>2010年5੍= 6;9日 主日第2礼拝メッ= ;セージより