赦すことの祝福

              聖書箇所 使徒の働き7章5460節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

ステパノはユダヤ人たちに向かって力強く説教しました。彼らにとってかなり厳しい説教でした。その説教を聞いた人々は怒りました。はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。この聖書箇所の直訳では「心をのこぎりで引き切る」という意味があるので、それほどステパノに対して人々が怒っていたことがわかります。怒りに満ちた人々はいっせいにステパノに殺到しました。ステパノを町の外に追い出して石を投げつけてきました。この時、ステパノは神様に自分自身をゆだねました。そして、ステパノは自分に対して迫害する人々を赦しながら殉教しました。彼は最後まで信仰を守り通しました。

 

この時、サウロ(後の使徒パウロ)がステパノの殉教する姿を見ていました。命がけで福音宣教をなすステパノの姿がパウロの目に焼きつきました。ステパノが神様を愛し従う姿を見ていたので、パウロが後にクリスチャンになった時、命をかけて福音宣教をする人となりました。パウロにとってクリスチャンとはステパノでした。

 

ステパノはなぜ迫害する人々を赦すことができたのでしょうか。それには3つのポイントがあります。

1つ目はステパノが聖霊に満たされていたことです。私たち人間の力では心から人を赦すことはできません。しかし、イエス様を信じる者のうちには聖霊様が住んでくださるからできないこともできるようになります。聖霊様と共に歩む時、聖霊様に満たされるので、人間的にはどんなに赦せない人も赦すことができるのです。

 

2つ目はステパノが天に目を向けていたことです。聖霊様に満たされたステパノは天を見上げました。ステパノはこの地上のことではなく、永遠に価値あるものに目を向けていました。天国に目を向けていました。私たちもステパノのように天に目を向け、永遠に価値あるものを土台として生きる時、この地上の様々な思い煩いから解放されます。そして、福音宣教のために生き始めます。それは、天国に持って行くことができる永遠に朽ちない宝となります。

 

3つ目は、ステパノがイエス様を見ていたことです。ステパノはイエス様をまっすぐに見ていたので迫害する人々を赦すことができました。周りの人々を見たり、自分自身を見ると赦せなくなります。ステパノはイエス様にしっかりと目を留め、感情に立つのではなく、信仰に立って迫害する人々への赦しの祈りをしました。ステパノの信仰を通してイエス様が働いてくださったので、ステパノは迫害する人々を赦すことができました。

 

生きていると赦せないことが起きます。赦しの問題は身近な隣人の場合が多いようです。伴侶、両親、子どもが赦せないというケースをよく耳にします。また、クリスチャンが本当に神様を愛し従っていくと必ず赦しの問題にぶつかります。十字架を負う歩みに入るので赦せないことが起きます。でもこれは大きな祝福を受けるための前ぶれです。赦せないと心が縛られます。赦せないと神様の祝福を十分に受けることができません。赦すことは本人にとっても周りの人々にとっても祝福です。赦すと、赦した本人が最も祝福されます。赦すだけで解放される人、自由になる人がいます。そして、赦すと神様の祝福を豊かに受けるのです。 

 (文責 久保田 望)

     

  主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2010年7月4日 第2礼拝メッセージより