『神様の実をつけるために』
マタイの福音書 15章1〜8節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8節)
私たちはイエス様を信じたとき、実をつけるために救われ、召しだされました。内側には喜び、平安、希望という実。外側には、私たちを通して人々に与えられる祝福という実をつけるのです。ですから、私たちが実をつけることは御心なのです。
この神様が与えられる実こそ、私たちの祝福なのです。では、どうすれば実をつけることができるのでしょうか。
・教会につながる
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4節)
実をつけようと、枝が頑張る必要はありません。枝が木から離れてしまっていれば、実を結ぶことは出来ません。しかし、ただ木につながってさえいるならば、枝は実をつけるのです。
では、木につながるとは具体的にはどういうことでしょうか。1つは教会につながるということです。たくさんの実をつけている人には、特徴があります。しっかりと教会につながっているのです。
エペソ1章23節に「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」と書かれているように、教会にはキリストが満ちています。私たちが感じても、そうでなくても満ちておられるのです。つまり、教会につながっているだけで、キリストにふれ、つながっているということになるのです。教会につながりつづけるだけで、私たちはキリストにつながり栄養をたくさん摂って、たくさんの実をつけるのです。それゆえサタンは私たちを何とかして教会から引き離そうとしてくるのです。
・祈り求める
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7節)
ルカの福音書の11章には、訪ねてきた友人のためにと、真夜中に別の友人のところに行って、あつかましくもパンを求めに行った人の例えが書かれています。なぜ彼はその友人のところに行ったのでしょう。1つは「あそこはパンがある。」と思っていたこと。もう1つは「彼ならば絶対にくれる。どうにかしてくれる。」と信じていたからです。
ふさわしいから求めるのではありません。頑張ったから受けるのでもありません。信仰とは恵みなのです。ふさわしくない者が受けるからこそ恵みなのです。その恵みがあるから、希望があるのです。
教会にしっかりとつながって、神様に求める人は、神様の恵みを見ます。小さな事でも、私たちには手に負えない大きな問題でも、神様はその祈り求めてきた者を受け止めてくださいます。そして、大きな実を結ばせてくださるのです。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2011年2月13日 主日第2礼拝メッセージより