『聖霊の力によって〜リバイバル』
説教箇所 使徒の働き2章1〜21節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
ペンテコステは、イエス様が天に上げられる時に約束された事でした。そして、この日は本格的に初代教会が始まった、教会の誕生日とも言える日です。この教会に聖霊が臨み、神様の働きは大きく進みました。
・教会に神の霊は臨む
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」(1節)ペンテコステ、つまり聖霊が臨んだ日は、弟子達を初めとして、人々が集まっているところに訪れました。このことは非常に重要な事です。なぜならば、聖霊は個人に臨んだのではなく、教会に臨んだということだからです。私達にとっても最も重要な『救い』は確かに個人のものです。しかし、『祝福』や『働き』とは教会という単位で神様は働きを現されるのです。この教会観を有していることは非常に重要です。教会観が弱いと「教会に行っても、行かなくてもいい。」という考えになり勝ちだからです。また、「炎のように分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」(3節)とあるように、聖霊はそこにいた人々全員に、例外なく臨んだのです。ここに集まっていた人々は、イエス様を愛していたでしょうが、中には、約束を疑っていた人もいたでしょう。しかし、そこに集まっていた全員に、聖霊が臨んだのです。
神様が臨まれる場所にいること、御体である教会につながっていることは大切なのです。そこに「いるか、いないか」は大きな違いです。当然、信仰を持って集まることは、素晴らしいことです。しかし、例えその時、信仰が弱かったとしても、聖霊は臨み、神様は祝福を与えて下さるのです。これが教会です。
・聖霊が事を成す
聖霊が臨まれた時、彼らは他国のことば、つまり異言を語りました。その光景を目の当たりにした人々は驚きましたが、異言を話している弟子達自身も驚いたことでしょう。自分達がしていることが、自分の力ではないことが、100%明らかだからです。しかもこの時、非常に多くの人々が集まってきました。当然、これも弟子たちが集めたのではありません。彼らは恐れて、隠れていた者だからです。異言を話したのも、人々が集まったのも、100%神様が主権を持って事を成したのです。
このペンテコステの時、多くの人々が救われました。リバイバルが起きたのです。人が何かをしたのではありません。神様が事を成されるのです。当然、神様に従って歩むことは必要です。しかし、私たちは、神様が事を成される時に、「自分も何かをしなければいけない」と思ってしまいます。そして、多くの場合に「自分には出来る」と思っています。自分で成果を得られると思うのです。しかし、それは違います。100%神様が事を成すからです。
これから、この地にもリバイバルが実際に起こります。その時、私たちが何かをするのではありません。聖霊がこの地に来て、聖霊が人々をとらえ、聖霊の力によって、人々に救いが始まるのです。
・ことば(預言)を持って事を成される神様
彼らの姿を見た人々は、彼らが酒に酔っていると思いました。それほどまでに彼らが聖霊によって変わっていたからです。彼らは異言を語りましたが、実は、それは預言でした。つまり神様のことばだったのです。
神様が事を成されるとき、それは神様のことばによって始まります。そして、その具体的な方法として、神様は預言という賜物の働きを用いられます。私達の教会も預言を用いています。それは、神様に聞き従うために祈っていたときに、開かれた事でした。聖霊、神のことば、預言。これらはリバイバルのポイントなのです。
私達の人生には、自分ではどうする事も出来ない事が起こります。しかし、クリスチャンは絶体絶命になった時が一番神様の祝福を受けるときです。そして、自分に力が無いことを知ったとしたら、それは大きなチャンスです。
なぜならば、その人は、神様が事を成して下さることを、見ることになるからです。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2011年6月12日 主日第2礼拝メッセージより