『実を結ぶためのポイント』
説教箇所 ヨハネの福音書15章1〜17節 メッセージ イザヤ木原真牧師
2011年7月11日より、ギリシャ・パトモスチームが遣わされています。昨年のこのチームにおいて、使徒の働き16章の「マケドニヤの叫び」より、宣教と言う事をはっきりと示され、語られましたが、私達はこの事にどれだけ応答し、どれだけ宣教をしたでしょうか。私達は自分自身の事から解放され、宣教のために歩まなければならないのです。では、その宣教で実を結ぶために、私達はどうすればよいのでしょうか。
・キリストにつながる
イエス様はご自身をぶどうの木であり、私たちクリスチャンの事を、その枝であると教えられました。ある人は「わたしの枝で実を結ばないものは」(1節) と書かれていることで「私は実を結ぶことが出来るのだろうか。」と考えますが、それは誤った考えです。私達が木にしっかりとつながってさえいれば、ぶどうの木が実を結ぶのと同じように、必ず実を結ぶことはできるのです。
ここで言う「実」とは、永遠のいのち、つまり人々の救いを意味しますが、さらにその枝がもっと多くの実を結ぶために、神様は刈り込みをなさいます。一般的に、イスラエルの果物は、美味しいのですが、多くは小さな実です。それは、刈り込みをしないからです。日本では剪定、つまり刈り込みをするので、栄養をたくさん受けた実が採れます。イエス様は、私達にも豊かな実をつけさせるために、刈り込みをなさるのです。
私たち枝は、それだけでは実を結ぶことが出来ません。木につながっていなければ実をつけることが出来ないのです。ですから、私達が実を結ぶためには、まずキリストにしっかりとつながっている必要があるのです。では、キリストにつながるという事は、具体的には何を指すのでしょうか。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら。」(7節)とあります。キリストにとどまるということは、キリストのことばにとどまるという事です。それはつまり、神様の語られることば立つということなのです。神のことばに立ち、そのことばを信じる者は、実を結ぶようになるのです。
・神のことばに聞き従うことと、教会につながること
9節〜12節には、戒めを守ること、互いに愛し合うことが書かれています。戒めと言うことばを律法的に感じる方もいるかもしれませんが、ここで言う戒めを守るとは、神に従うことを意味しています。神に聞き従うことは、神の戒めを守ることであり、実を結ぶためのポイントなのです。また、互いに愛し合うとは、クリスチャン同士が愛し合うこと、つまり教会にしっかりとつながることを意味しています。教会にしっかりつながっていなければ、実を結ぶことは出来ません。しかし、キリストの愛にとどまり、しっかりとつながっているならば実はつくのです。
神様は、私達に宣教という事を語られました。私たちはこの事に応答しなければいけません。私たちの周りにも、救いを求めて叫んでいる人々がいます。痛んでいる人々がいます。私たちは、その「マケドニヤの叫び」を聞いたならば、宣教に出て行かなければなりません。神様は、多くの実を用意しておられます。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2011年7月10日 主日第2礼拝メッセージより