『マケドニヤの叫び』

               聖書箇所 使徒の働き 16610節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 

パウロたちは、宣教をするために、アジアに行ってみことばを語ろうと思っていました。ところが、聖霊によって、主はその働きを止められたのです。パウロがはっきりと判るかたちで、主は示されたのだと思われます。

 パウロはとしては、自分がやりたいことをやろうとしたのではなく、「きっとアジアにも御ことばが必要だ。」という思いのゆえに、アジア(現在のトルコ)に行こうとしていたのです。福音を伝えることは、当然、神の御心のことです。しかし、この時、神様はその計画をストップされました。

 私たちの人生の中にも、「あそこに行くのが御心だろう。」「こうする事が御心だろう。」と思うことがあります。確かに、そのことが神様の確かな御心の場合もあるのですが、時として、それが神様の御心とは異なり、神様がそれをストップされることがあります。その際には、私たちはそのストップを受け取らなければいけません。

 パウロがこの時行くべき場所は、アジアでもビテニアでもありませんでした。それで神様は、パウロを止め、彼もそのストップに従ったのです。実はこのことが、後のキリスト教の歴史において、重要なポイントでした。

 

 ある夜、パウロは幻を見ます。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのです。パウロがこの幻を見たとき、ただちにマケドニヤに出かける事にします。神様が自分たちを招いて、福音を宣べ伝えさせるということを確信したからです。

 神様は私たちにもっとイエス様の素晴らしさを、もっとイエス様の愛を、どんなに主が素晴らしい方か、真実な方かを知ってほしいと思っておられます。神様が私たちを導いておられるところに、「マケドニヤの叫び」のように、神様に助けを求めている人々がいます。そこに私たちのステージがあるのです。

 

 パウロは、マケドニヤの第1の町であるピリピに幾日か滞在します。そして、宣教の働きをする中で、多くの人が集まり、救いもありました。さらに、ルデヤという人が救われたことで、その町で宣教をするための拠点さえも与えられたのです。福音宣教のための基盤が整い、「さあ、これから」と言うときに、悪霊につかれた女性が現れ、彼女の主人たちに捕らえられ、牢に入れられました。

 神に従って行った宣教の場所で、彼らは多くの苦しみを受けることになりました。しかし、そこで彼らは感謝と賛美をささげ、徹底的に感謝をし、心から主を礼拝しました。その時に奇蹟が起こるのです。

 

 神様に従ったのにも関わらず、最悪になった時、絶望してはいけません。それこそが、奇蹟の前触れであるのです。多くの人は、状況を恐れるあまりに、神様のもとに行きません。神様のもとに行って、真実に神様に祈り、感謝と賛美をなして行くとき、神様の御手が動くのです。

 

 今年、神様は私たちに宣教を語られました。私たちを通して、福音を伝えようとしておられる方が、必ずいるのです。その神様の語りかけに、そして「マケドニヤの叫び」に耳を傾けて下さい。

 神様は、私たちをそこに遣わし、豊かな栄光を現わされるのです。

(文責 千多冨二男)

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2011717日 主日第2礼拝メッセージより