『天国人としての歩みとその特権』
説教箇所 ピリピ人への手紙 1章27〜30節 メッセージ イザヤ木原真牧師
・天国人として歩む
パウロは、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(27節)と言いました。多くの人は、このようなことばを聞くと、品行方正、つまり「慎ましく、清く正しく」というイメージを持ってしまいます。しかし、ここで言われている、キリストの福音のふさわしさとは、そのようなことではありません。この御ことばの別訳では、この箇所は「御国の民の生活をしてください。」となります。つまり、この御ことばの真意とは、「天国のものとして歩みなさい。」ということなのです。これは意識を切り替えていかなければいけません。特に私たち日本人は郷土意識が強い民族です。しかし、その日本人であるということの前に、私たちはすでに天国人なのです。
しかし、私たちが本当に天国人として歩もうとすると、この日本での生活は簡単ではありません。日本人の考えとは「和を持って尊し」という考えです。例えば、ある職場では、礼拝のために日曜日に会社を休んだりすると、会社の和を乱す者として、厳しい立場に追いやられたりしまうのです。だから、そのようなぶつかりを避けるために、多くの人が世と妥協して生きることを選択します。しかし、その選択は、確かに人とのぶつかりはありませんが、神様の祝福を見る歩みではありません。なぜなら、私たちが天国人だからです。天国人として歩むことは簡単ではありません。しかし、この信仰の戦いの中で、神様は天国人である私たちを、豊かに祝福して下さいます。
日本の教会は一致がないとよく言われます。人は一致しようと思っても、なかなか一つにはなれません。しかし、私たちが天国人として歩み、共に永遠のいのちの獲得を願い、宣教のために生きて行こうとすると、私たちクリスチャンは一つになることが出来ます。天国人としての歩みとは、多くの神様の祝福を見るためのものばかりか、宣教や神様の働きにおいても、非常に重要なカギであるのです。
クリスチャンであっても自分のことに捕らわれている人がいます。自分の問題の大きさに目を奪われ、心を奪われているという事です。残念ながら、その人はまだ、天国人としての歩みは出来ていません。確かにクリスチャンであっても、この地上ではたくさんの問題が許されます。しかし、どんな問題があろうとも、私たちがすでに天国人であることを知り、確信して歩んでいるならば、私たちは自分のことから解放され、宣教のために目を向けて歩むことが出来るのです。
・苦しむことは神様に与えられた特権
私たちは信仰を通して、神様の祝福を受けます。しかし、本当に信仰を持って歩んでいるが故に、苦しみを伴うこともあるのです。しかし、それは神様に与えられた恵みです。なぜならば愛するもののために苦しむという事は、その人に与えられた特権だからです。日本人は愛という意味を間違えてしまいます。自分が満足するための愛はエロスの愛であり、聖書の言う愛とは違います。同じ傷みを負って共に歩むこと、それこそが愛するということなのです。
私たちが天国人として歩むことは素晴らしい恵みです。確かにある時には戦いが許され、ある時には苦しむこともあるでしょう。しかし、その歩みの中でさえ、私たちが天国人として歩むならば、神様は、必ず私たちを祝福してくださるのです。天国人として、共に歩んで行きましょう。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2011年8月21日 主日第2礼拝メッセージより