『失望せずに祈り続ける』

                     ルカの福音書 1818節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

「神様は私達の信仰を通して働かれ奇蹟をなさいます。私達が今おかれている、状況や現状に神様に感謝して、喜びの声、賛美の声を上げる時に神様は奇蹟をなさいます。それは神様に対して、喜びの声、賛美の声を上げる行為は信仰を通して用いてるからなのです

 

ルカの福音書188節に、あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と書かれています。神様に信仰を持ち、またその信仰をもちいることが大事なのです。

ルカの福音書181節からイエス様はたとえ話をなさいます。1節に「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」と書かれています。これは日常の生活の中に、失望する時があるのを前提にイエス様はお話されています。そんな時私達は神様に祈るのですが、祈る力が無かったり、祈っても何になる、と思いたくなる位の失望感に陥る事があります。それは私達に信仰がないとかではなくて、人間として当たり前のことで目に見える現実に気持ちが滅入るのは当然なのです。しかしそこで祈るのをやめるのではなく、祈り続ける事が大切であって、神様は私達の祈りを必ず聞いていて、一番良い神様の最善の時に必ず応えられるのです。

私達はさまざまな問題や困難に遭遇した時、逃げ出したり投げ出したりする時があります。そんな時にこそ神様に感謝と喜びの声をあげて、投げ出さずに神様に祈る事が大事です。

 

ルカの福音書182節からイエス様はたとえ話をなさいます。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」とあります。当時のローマは賄賂を受け取り不正な判決を下す裁判官がいました。ここでイエス様がたとえで出されたのは、その“不正な裁判官”と“やもめ”です。やもめは弱い者を表しています。

ここでやもめはしつこく裁判官に懇願して、裁判をしても何の得にもならない不正な裁判官に裁判をしてもらっています。不正な裁判官でしたからきっとやもめに有利な裁判をしたことでしょう。

こんな神を恐れず、人を人とも思わない裁判官ですら懇願して頼み込んだやもめの言うことを聞いただよと言っているのです。だからといってしつこくするのではなく、7節に書かれている「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」ように、夜昼神を呼び求めている選民のためのその祈りは神様の時が来た時、必ず聞かれ応えられると語っておられます。

 

私達はもっとこのもめのようにあきらめずに大胆に神様に祈り求めることが大事です。簡単にあきらめないでほしいです。“どうしても”というその切なる願いを神様に聞いてもらいましょう。神様の時が成就するとき私達は大きな祝福をみます。神様は聞いてくださる、応えてくださる。その思いが信仰なのです。

その信仰があれば必ず奇蹟が現れてきます。

(文責 野見山光一)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしも長崎教会

2011年12月18日 主日第2礼拝メッセージより