『最も偉大な質問 イエス様の真の愛』

            聖書箇所 ヨハネの福音書2115〜25節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

この聖書箇所は「最も偉大な質問」と言われ、聖書でとっても大切な箇所の1つです。15節に「彼らが食事を済ませた時」とあります。神様は 大切な質問をする時、まず食事が終わってから話されました。こんな小さな事にも神様の愛を感じます。人はお腹が空くとイライラしたり怒りっぽくなったりします。神様はあなた以上にあなたの人生に気を配り心配して下さる方なのです。

復活されたイエス様は、筆頭弟子であるペテロに「ヨハネの子シモンあなたは私を愛しますか」と質問します。ペテロという名の意味は「岩のようにしっかりした人」と言う意味です。以前のペテロは「他の人があなたを裏切っても私は決して裏切りません」と言っており、イエス様も「ペテロ」と彼を呼んでいました。

しかし、この時は「ヨハネの子シモン」と呼ばれました。この呼び方はイスラエルで普通の呼び方です。イスラエルでは名前は重要とされており、その名前の実質を現します。「ヨハネの子シモン」と言うのは、神様が前もって予告したとおり、イエス様が捕らえられた時、鶏が鳴く前に3度裏切ってしまった弱いペテロ、つまり、生まれつき弱さを持った、ふらついているペテロを「ヨハネの子シモン」と呼んだのです。

しかしイエス様は、ペテロの弱さを一言も責めませんでした。これはイエス様の「十字架上の愛」を示しています。この事は、「そのままの弱いあなたでいい、生まれつきの弱いあなたのままで私を愛してくれるか」と言っているのです。ペテロは、「私があなたを愛する事はあなたがご存知です」と言いますが、裏切ってしまった後でそれを告白することは、とても勇気がいる事です。しかし、イエス様はあえてそれを導かれました。

神様は私達と全く違う愛、もっと深い愛で愛してくださる方です。私達の人生には罪・弱さ・傷があります。多くの場合、相手の弱い部分・傷に出来るだけ触れないようにします。それが、人間の思いやりです。でも神様は私達の罪をあやふやには決してされません。神様と共に歩んでいると、神様は傷をある時思い出させ、浮上させる事があります。それは、攻め立てる為ではなく、「罪をもったままだとその人が祝福を受けられない。罪を持ったままでは、その人に神様が用意しておられる恵みが受けられない」と言っているのです。神様は既に十字架上で赦しきっておられるので、罪を明らかにし「さあ、悔い改めたらもう許しは此処にあるのだから、何時までも自分を責めないで、隠さないでその罪を明らかにして召しを受け取って行きなさい」と言っているのです。傷と向かい合うことは私達にとって、とても怖く、勇気がいる事です。でも、それと向かい合って、本当にその傷を神様の前に差し出した時に、いやしはくるのです。

この時も、ペテロはイエス様を裏切ってしまいましたが、イエス様はその傷に触れてきました。グサッと来るたびごとにペテロは悔い改め、そこから開放されたでしょう。そしてイエス様に「私の子羊を飼いなさい」と任されたのです。「信頼される・任される」とても嬉しいことです。いろんな事があった時も隠して覆うのでなく、神様の前に出し悔い改めるのです。ペテロはアガペの愛(イエス様の愛完全な愛)ではなく、フィリア(人間に出来る最高の愛)私に出来る最大の愛で、「愛します」と言います。神様はあえて3度聞いて3度告白させました。これは、告白する事によって彼が心を痛めた事実は残っても、犯した罪から開放されるからです。

多くの人が過去の失敗や過去に傷を引きずって、自分を責めていたり、もうダメだと思っていたりします。自分を責めて生きている結果、前に進めなかったり、もっと大きな祝福を与えられているのに受ける事が出来なかったりしている人が沢山いるのです。しかし、キリストはそれを願ってはおられません。キリストはそれらの事を根本から癒し、その事すらも「全て益になる」と知って前に向かって進む事を望んでいます。聖書はとても正直にそのような事が書かれています。聖書はきれいごととか清い物と言われていますが、聖書はとても正直で人間を赤裸々に書いています。弟子達もマリアもペテロも私達と同じ罪人であり、1人の人間なのです。

神が言われる事が最善です。多くの人が、神が言われる事ではなく、人を気にしています。主が語っておられること、導いておられる事に従ってください。その歩みは間違いなく祝福され、私たちを通して祝福が他の多くの人にまで流れ出していくのです。                         (文責 山本美津子)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2012122日 主日第2礼拝メッセージより